国交回復を決めた、中国の周恩来首相(左、当時)と田中角栄首相(右、同)(写真=AP/アフロ)
国交回復を決めた、中国の周恩来首相(左、当時)と田中角栄首相(右、同)(写真=AP/アフロ)

日本と中国は1972年9月29日、国交正常化を果たした。正常化はいかなる経緯で実現したのか。今日までの50年間に、いかなる紆余曲折(うよきょくせつ)があったのか。中国大使を務めた経験を持つ宮本雄二氏に解説していただく。キーワードは「競争的共存関係」だ。

 1972年9月29日、日中国交正常化が実現した。1969年に外務省に入り中国語研修を命じられた筆者は、中国大陸の中華人民共和国との国交がこんなに早く回復できるとは思ってもいなかった。台湾の中華民国と外交関係があったあの当時、それが日本社会の相場観であった。日中国交正常化は、米国と中国が、ソ連(当時)に対する共同戦線を張るために180度の方針転換をした結果、可能となった。

親台湾派も理解していた中国の重要性

 第2次世界大戦後、米国は、共産主義イデオロギーを背景とするソ連のアジアへの浸透を憂慮していた。毛沢東率いる共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国が1949年10月に成立した。敗れた蒋介石の国民党は台湾に逃れ、中華民国として存続した。

 中国(中華人民共和国)軍は、1950年6月に勃発した朝鮮戦争に同年10月に参戦。これにより米国は、アジアにおけるソ連の浸透と東西冷戦を強く意識した。このことが、米国がベトナム戦争に参戦するきっかけとなる。中国との関係においても、台湾(中華民国)を正統政府と認め、1954年には米華相互防衛条約を結び、中国による台湾統一を阻止した。中国とは対立と分断の関係に入ったのだ。

 日本は1951年9月、サンフランシスコ平和条約に調印。独立を一刻も早く回復するため、米国の要求をのみ、米国と同じ外交的選択をした。1952年4月、サンフランシスコ平和条約が発効する7時間半前に、日本は台湾との日華平和条約に調印した。

 その結果生じた中国との対立と分断の関係は、吉田茂を含む当時の日本の政治指導者にとり決して満足のいくものではなかった。台湾の蒋介石政権との関係を大事にした岸信介、佐藤栄作両首相も、中国との関係改善を水面下で模索した。隣の大国である中国の存在そのものが日本の国益に大きな影響を与えるのは必然であり、中国と付き合わざるを得ないと考えていたからだ。

 多くの日本国民も、それを侵略戦争と呼ぶかどうかは別にして、中国には悪いことをしたという自覚があった。加えて、「中国」といえば台湾の中華民国ではなく大陸の中華人民共和国を指す、というのが常識となっていた。中国との新たな関係の構築が国民的支持を得ていたことは、国交正常化直後、日本で中国ブームが沸き起こったことからも見て取れる。米国の方向転換により機は熟した。1972年7月、田中角栄政権が成立すると、すぐに日中国交正常化へと突き進んだ。

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