イエメンで活動する南部分離派(提供:AP/アフロ)
イエメン情勢を見ていると、泥沼から底なし沼になって、今は底なし沼の底が抜けてしまったような印象を受ける。それほど、状況は悪化し、かつ複雑怪奇なものと化している。もはや誰と誰が敵で、誰と誰が味方で、それぞれの勢力が何のために戦っているのかすら理解困難になっている。それを象徴するのが、今年8月17日に起きた、イエメン南部分離派「南部暫定評議会」によるアデンの主要政府施設占拠事件だ。
そもそも論であるが、イエメン戦争は、イエメン北部を拠点とする武装勢力「フーシ派」(正式名称は「アンサールッラー=アッラーの支援者たち」)が2014年に首都サナアを占拠し、ハディ大統領率いる正統政府を首都から駆逐したことが発端である。同政府が国際社会に救援を求めたのを受け、2015年3月にサウジアラビアとUAE(アラブ首長国連邦)が主導する「アラブ・イスラム有志連合軍」がフーシ派への軍事攻撃を開始した。
現在は、サウジアラビアとUAE、それに国際社会が支援する正統政府が、アデンを臨時首都としてフーシ派と対峙。イランが支援しているとされるフーシ派はサナアやその北のサァダを拠点に陣取っている。
「スンニ派対シーア派」ではくくれない
宗派戦争、代理戦争という見かたも強い。サウジアラビアやUAEがイスラムの多数派である「スンニ派」。イランが少数派である「シーア派」で、フーシ派もシーア派であるからだ。
ただし、事はそう単純ではない。フーシ派について書くとき、われわれは単純化して「イランの支援を受けたシーア派の武装勢力」などと形容してしまう。だが、実はフーシ派のなかにはさまざまな要素が混在しており、シーア派だからイランに近いと考えるのは短絡的すぎる。
そもそもイランのシーア派が12イマーム派なのに対し、フーシ派、より正しくはイエメンのシーア派の主流はザイド派(5イマーム派)だ。ザイド派は「シーア派のなかのスンニ派」と呼ばれるほど、教義的にはスンニ派に近い。さらにいえば、現在フーシ派と呼ばれている勢力のなかにはザイド派信徒以外、スンニ派の部族勢力も含まれている。
他方、正統政府側では、ハディ大統領はスンニ派の「シャーフィイー派」だが、ザイド派に属す者も少なくない。「スンニとシーア」といった二元論でスパッと切ってしまってはこの戦争の本質をかえって見誤ってしまう恐れもある。
ワッハーブ派の北部への浸透がフーシ派を生んだ
一般的に、北イエメンにはザイド派が、南イエメンにはスンニ派(シャーフィイー派)が多く、イエメン全体ではスンニ派が過半数を占めるとされる。現在のイエメン(イエメン共和国)は、サナアを首都とするイエメン・アラブ共和国(旧北イエメン)とアデンを首都とするイエメン民主人民共和国(旧南イエメン)が1990年に統合してできた国である。南はもともと共産主義を標榜するソ連の衛星国であり、歴史的、宗教的、政治的に南北は異なる道を歩んできたといえる。
南北統合は「北」主導で行われたため、「南」はそれに不満を募らせ、1994年には再分離を求めて北に反旗を翻した。このとき「南」を支援したのがサウジアラビアだといわれている。
本来、反共であるはずのサウジアラビアがなぜ旧共産主義政権を支援したのか。そういえば、1962年のイエメン革命のときも、反シーア派のサウジアラビアは、世俗的な「共和制派」ではなく、シーア派の「ザイド派イマーム」(イエメン国王)をかくまっていた。サウジアラビアにとって国境を接する南(すなわち北イエメンの地域)に強大強力な国家ができるのは脅威だ。このためサウジアラビアにとって、イエメンにはつねにサウジに従属的か、さもなくば脅威にならない程度に弱くあってもらわねば困るのである。サウジアラビアの内政・外交は決して宗教とイデオロギーにばかり従っているわけではない。
「南」だけでは頼りないと判断したのか、サウジアラビアは、当時のサレハ大統領(北出身、ザイド派)に対するカウンターバランスとなりうる存在として「イスラーフ」にも積極的に支援を与えた。ちなみに、イスラーフ(アラビア語で「改革」の意味)は、部族勢力、ムスリム同胞団、サラフィー主義(ワッハーブ派)者などの集合体。イエメン議会では与党の国民全体会議につぐ勢力を誇っていた。
日本や欧米メディアにはイスラーフをムスリム同胞団だと書くところもある。たしかに同胞団系のイスラム法学者たちも参加しているが、かならずしもその思想に縛られているわけではない。シーア派であるザイド派も含む宗教的な保守層や部族による緩やかな連合とみたほうがいい。
サウジアラビアはこのイスラーフを経由してイエメンにサラフィー主義的なイスラムを浸透させたとされる。本来であれば、ザイド派の勢力範囲であるイエメン北部にまでワッハーブ派のモスクや学校を建設していったという。このことが、ザイド派宗教勢力の危機感を強め、そこからザイド派復興運動としてのフーシ派が生まれたのだとの説もある。
UAEの徹底した、ムスリム同胞団嫌い
2015年以降のイエメン戦争において、イスラーフは正統政府を支援する立場で、フーシ派を激しく批判している。その意味でイスラーフはサウジアラビアやUAEと同じ立場のはずだが、UAEはこのイスラーフを蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っている。UAEからみれば、イスラーフは、テロ組織に指定したムスリム同胞団のイエメン支部にほかならず、絶対に容認できる存在ではなかった。
アラブ民族主義や社会主義のイデオロギーが中東地域を席巻していた1950年代から60年代、湾岸の君主制諸国はそれをきわめて深刻な脅威と認識。自分たちの正統性を担保するため、イスラムを擁護する姿勢を前面に押し出した。同時に国家の近代化を進めるためムスリム同胞団員を積極的に外国人労働者として自国に受け入れた。当時、ムスリム同胞団はエジプトやシリアなどで政治的に迫害されていた。とくに教育分野での同胞団の影響は大きく、やがて湾岸諸国でも自国民の同胞団員が育つようになった。彼らが自国政府の政策に対し意見をいうようになると、各国は彼らおよび同胞団そのものも体制を脅かす重大な脅威とみなすようになったのである。
また、UAE国内でも同胞団員とされるUAE人がテロ容疑で逮捕されている。正直なところ、UAEがなぜムスリム同胞団をこんなに毛嫌いするのかわからない。
UAEとカタールのあいだの対立も、カタールが同胞団を支援しているのが大きいとされる。これも、よく誤解されるのだが、カタールがいくらムスリム同胞団を擁護しているといっても、カタール自体が国家として同胞団のイデオロギーを取り入れているわけではない。カタールはサウジアラビアと同じワッハーブ派であり、今もそれは変わっていないはずだ。そして何より重要なのはカタール人のムスリム同胞団員は存在しないことになっていることである。カタールにもカタール人によるムスリム同胞団の組織が存在していたが、1990年代に解体してしまった(もちろん、隠れ同胞団員はいるだろうが)。
サウジとUAEの呉越同舟
対フーシ派の戦いでは、正統政府、サウジアラビア、UAEは一致団結していなければならない。だが正統政府自体かならずしも一丸となっていなかった点は指摘しておくべきだろう。ハディ大統領(南出身だが、北に亡命)率いる正統政府側にはイスラーフ、そして南部分離派(アラビア語で「ヒラーク」と呼ばれる)、さらにイエメン東部のハドラマウト地方の諸部族などが加わっていた。だが、これらのうちイスラーフは、UAEが拒否反応を示しているため、開戦後はロープロファイルを保っていた。
UAEと同様、サウジアラビアもムスリム同胞団をテロ組織に指定している。とはいえ、UAEほど強いアレルギーを持ってはいない。むしろイスラーフは、サウジアラビアがイエメンに影響力を行使するための重要なパイプであった。そのサウジの仲介で2018年12月、UAEの実質的支配者であるアブダビのムハンマド・ビン・ザイド皇太子(MbZ)がイスラーフ幹部と協議するサプライズがあった。だが、結果として、UAEの同胞団嫌いは治っていない。
一方、UAEが対イエメン戦略のカードとして目をつけたのが、南部分離派である。上述のとおり、1990年の南北イエメン統合後、旧南イエメンの人たちはずっと冷や飯を食わされてきたという不満をもっている。1994年に再分離を求めて起こした内乱が鎮圧されたのちも、不満は解消されていない。
UAEがこの南部分離派といつから結びついたかは不明だ。イエメン戦争開始時点ですでに南部を勢力下におくことがUAEの戦略に含まれていたのかもしれない。UAEはインド洋上に浮かぶイエメン領ソコトラ島を一時期、占拠していた。ソコトラ、アデン、そしてイエメンの対岸にある東アフリカのソマリアを自国の安全保障上きわめて重要な戦略的要衝と位置づけている節がある。したがって、UAEが2017年3月にアデン空港を事実上占拠して、その直後に南部分離派が「南部暫定評議会」を設立したのは偶然とは思えない。
報道によれば、UAEはその後もしばしば、アデンやソコトラ島で正統政府やサウジアラビアを怒らせる動きをしている。加えて今回の事件である。いずれの場合も南部分離派は、UAEの気持ちを忖度(そんたく)したかのように、フーシ派よりもイスラーフやアラビア半島アルカイダ(AQAP)、イスラム国(IS)のほうが危険であると発言している。こうなるとやっぱり、UAEはサウジアラビアやイエメン正統政府とは異なるアジェンダでイエメンに介入しているのではと疑心暗鬼にならざるを得ない。
少なくともUAEとサウジアラビアではイランに対する脅威認識において大きな温度差が見られる。UAEは経済的にイランとの結びつきが強いため、サウジアラビアほどイランに対し強硬姿勢を示していない。そのことがイエメン戦争にも表れたとの見かたもある。実際、2016年にサウジアラビアやバーレーンがイランと断交したときでも、UAEはイランとの外交関係を維持した。いずれにせよ、正統政府・サウジアラビアとUAE間にはさまざまな問題で無視できない亀裂があることがあらためて浮き彫りになったのはまちがいない。
南部暫定評議会が大統領府を含むアデンの主要政府施設を占拠した直後、アブダビのムハンマド・ビン・ザイド皇太子(MbZ)は急きょ、サウジアラビアを訪問し、同国のサルマン国王やムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MbS)らと協議している(なお、MbZはMbSのメンターだという説が根強い)。さらに南部暫定評議会の幹部もサウジアラビアを訪問しており、サウジアラビアとUAEはイエメンでの協力を今後も継続することで合意したと両国メディアは報じた。南部暫定評議会はアデンの主要施設から撤退したとも伝えられた。
だが、やれやれと思った矢先の8月29日、UAE軍は南部暫定評議会の支援を受け、アデンやその周辺、さらに南部のジンジバールに空爆を加えた。イエメン正統政府は「300人以上の死傷者が出た」とUAEを激しく非難したが、UAE側はテロリストを攻撃しただけだと開き直っている。
一方、サウジアラビアは9月1日、イエメン南西部のザマールに大規模な空爆をしかけた。報道によれば、標的になったのは刑務所で、100人以上が死亡したという。サウジアラビア側は、フーシ派の軍事施設だと主張している。
サウジとUAEの亀裂で漁夫の利を得るのは誰か?
イエメンで起きた一連の混乱においてトリックスター的な役割をしてきたのがサレハ前大統領である。2012年に大統領の地位を追われたが、与党国民全体会議の党首として隠然たる政治力を維持している。フーシ派が2014年に起こした「クーデター」では、宿敵だったはずのフーシ派側について混乱の大きな火種となった。しかし、2017年に、今度はフーシ派を裏切ると、その直後、フーシ派によって殺されてしまう。
そして、サレハの息子、アフマドは2013年からずっとUAEにいるといわれている。彼は、UAEにとって人質なのか、切り札なのか、はたまた隠し玉なのか。このあたりにもUAE、あるいはアブダビのムハンマド・ビン・ザイド皇太子(MbZ)のしたたかさを感じる。
ただでさえ、混乱しているさなか、テロ組織「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」は①ライバルであるISの「イエメン県」と②UAEが支援する南部暫定評議会の軍事部門「治安ベルト部隊」を攻撃し、大きな戦果を挙げたと誇示した。他方、ISも治安ベルト部隊をオートバイ爆弾で攻撃し、9人を死傷させたと主張している。
イエメンの混沌で漁夫の利を得るのは、乱世に活路を見いだすテロ組織であろうか。さもなくばフーシ派、あるいはサウジアラビアやUAEと対立するイランやカタールということになろうか。
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