習近平・国家主席(左)と、江沢民・元国家主席(中央)、胡錦濤・元国家主席。長老の意見はまだ無視できるものではない(写真:ロイター/アフロ)
習近平・国家主席(左)と、江沢民・元国家主席(中央)、胡錦濤・元国家主席。長老の意見はまだ無視できるものではない(写真:ロイター/アフロ)

 今年も「北戴河会議」が人々の関心を集める時期になった。ここで何が決まるのか、あるいは決まらないのかで、今後の中国の動きに影響が出ると見られているからだ。とりわけ、中国経済の見通しが不透明となり、米中経済戦争をめぐり上海で開かれた閣僚級協議が何の成果も上げないままそそくさと打ち切られ、ドナルド・トランプ米大統領が9月からのさらなる対中制裁強化を打ち出した時期だけになおさらだ。追い打ちをかけるように、香港情勢も改善の兆しを見せず、むしろ深刻化している。中国共産党がどういう方針を決めるのか、世界はますます関心を持たざるを得なくなってきているのだ。

 ところが、この「北戴河会議」がそもそも何なのかについていま一つはっきりしない。そういう会議があったのは昔の話で、今はないという論者もいる。

 北戴河は北京から最も近い河北省秦皇島市にある海浜リゾートの所在地。1950年代から中国共産党の指導者たちはここで避暑をし、合間に会議をしていた。

 私が最初に北京に住んだ80年代の初めは、今とは大違いで中国には本当に何のエンターテインメントもなかった。日本大使館が一夏借り上げた北戴河のヴィラ1棟を館員で順番に使う制度があり、ここに行くのが大きな楽しみだった。同僚家族と共に私の家族も数日過ごしたことがあり、懐かしい思い出だ。要人地域に隣接してはいなかったが、それでも普通の中国人が行く海水浴場からは切り離されていた。隣が見えない設計になっているものの、ときどき散歩する中国人家族と出会った。おそらく党や政府で働いている人たちだったのだろう。

 80年代に入り、党・政府そのものが夏は北載河で仕事をするようになった。実質的な権力者であった鄧小平や陳雲といった長老たちが夏の間、北京を離れて北戴河に住んだからだろう。ところが2003年、胡錦濤は党と政府が北戴河に移って仕事をすることをやめた。確かにこの時代になると80年代と比べ高速道路もできたし、通信手段も発達した。政府や党が無理して移る必要もない。胡錦濤時代、北戴河で正式の「会議」らしきものが開かれた形跡はない。この意味で公式の「北戴河会議」と呼ばれるものは終わったと言える。

 とはいえ、北京の夏は40度を超える。避暑地に行きたくもなる。これは変えられない。長老たちは、その後も北戴河に集まり、党と政府の主要幹部も北戴河に顔を出し続けた。しかも有力者らが同じ場所にいるのだから、意思疎通ないし「根回し」にも便利だ。この慣行は、今日まで確実に続いている。有力者が集まり、三々五々語り合えば、そこに自ら「雰囲気」なり「空気」なりが出来上がってくる。これが中国共産党にとり格別に重要な意味を持つ。中国共産党も想像以上に「空気社会」なのだ。これが、「北戴河会議」と今でも呼ばれ、重視されている理由なのだろう。

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