
今年8月2日は、1990年の「湾岸危機」発生からちょうど30年に当たった。30年前のその日、イラクが南の隣国クウェートに侵攻し、あっという間に占領してしまったのである。1991年1月には、米軍主導の多国籍軍が、イラク軍をクウェートから駆逐するために、イラクへの攻撃を開始した。こちらは「湾岸戦争」と呼ばれる。個人的には、湾岸戦争が始まった段階で、イラクの敗北は明らかだったし、日本ができることも限定されていたので、その前段階としての「湾岸危機」のほうが日本外交上、いろいろな意味で重要だろうと考えている。
湾岸危機は、冷戦終了後に起きた最初の国際紛争として、米ソが協力して解決に当たるという画期的な事件であった。社会主義の総本山であるソ連がこの湾岸危機で、社会主義バァス党(以下、バース党)が支配するイラクではなく、君主制を取るクウェートを支持したのも象徴的といえる。
また、日本にとっても他人事ではなかった。日本は、クウェートとイラクの両国から多くの石油を輸入していたが、危機のせいでそれがストップしてしまった。クウェート在住の日本人がイラク側に捕まり、いわゆる「人間の盾」として軍事施設など戦略的要衝に連行された。イラク在住日本人もイラクから出国できなくなった。さらに、危機から戦争終結までに、日本がいかに貢献するかが大きな関心事となり、その後の自衛隊の海外派遣に道を開く重要な契機となったことでも知られている。
実は筆者はイラク軍がクウェートに侵攻したとき、クウェートに住んでおり、いわゆる「人質」となった口である。もっとも、イラク側は、我々のことを人質とは呼ばず、「客人」と呼んでいた。口さがない欧米メディアなどは、客人を意味する「ゲスト」と人質を意味する「ホステージ」とを合わせてつくった「ゲステージ」という語を好んで用いていた。
ただ、人質といってもいろいろある。クウェート在住の日本人はイラク各地に連れて行かれ、文字通り人質として解放までの時間を過ごした。一方、同じクウェート在住であっても大使館員は、イラクに入った段階でイラク側から解放された。したがって、厳密な意味では人質とは言い難い。だが、イラクから出国できないことに変わりはなく、事実上の人質扱いということになる(なお、筆者は当時、在クウェート日本大使館で専門調査員をしていたので、外交官ではないものの大使館員という枠組みであった)。そして、イラク在住の日本人も、イラクからの出国を許可されなかったため、やはり事実上の人質といえるだろう。
いきなり難題、米大使館員を保護すべきか?
さて、改めて当時の記録を確認してみると、イラクが侵攻してきた直後から、在クウェート日本大使館員は大使館に呼び出され、すぐに総出で在留邦人の安否確認に当たった。当時、クウェートの日本人コミュニティーは日本人会という組織を作り、大使館を頂点にして上から下へ順番に電話を回していくピラミッド型連絡網を作っていた。携帯電話が普及していない時代なので、恐らく他国の日本人コミュニティーでも同様の連絡網があったと思う。ところが、当時、多くの日本人が夏休みを取っていたため、ピラミッド型の電話網が機能せず、結局、全世帯に大使館から電話することとなった。何とか全員の安否が確認できたところで、筆者自身もようやく外からの情報収集と情勢分析に当たることになった。
イラク軍が侵攻したかなり早い段階で、大使館として重大な決断を迫られる事件が発生した。侵攻初日、数名の米大使館員が、日本大使館に保護を求めに来たのである。 残り3540文字 / 全文5035文字 「おすすめ」月額プランは初月無料 会員の方はこちら 日経ビジネス電子版有料会員なら 人気コラム、特集…すべての記事が読み放題 ウェビナー日経ビジネスLIVEにも参加し放題 バックナンバー11年分が読み放題この記事は会員登録で続きをご覧いただけます
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