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「日本は今、歴史上で初めて『師』のいない事態を経験している」。キヤノングローバル戦略研究所の瀬口清之研究主幹はこう指摘する。だからこそ、日本独自の優れた価値観を自己認識し、世界に訴え、貢献すべきだ、と訴える。優れた価値観とは国民各層に共有されている「モラル」を尊重し実践する意識の高さだ。どこが優れていて、日本はいかに貢献できるのか。

(聞き手 森 永輔)

多くの人が自粛要請に従い、外出するときにはマスクを着用した(写真:アフロ)

瀬口さんは、米国の最近の動向を懸念されています。

瀬口:新型コロナウイルスの感染拡大が米国経済を痛めているのに加えて、ドナルド・トランプ米大統領が米国社会を分裂させ、軍からも強い不信感を抱かれているように見えるからです。6月4日には、ジェームズ・マティス前国防長官が「トランプ氏は米国民を団結させようとしない、そうしようとするふりすら見せない、私の人生において初めての大統領である。逆に彼は我々を分裂させようとしている」と強く非難しました。

瀬口 清之(せぐち・きよゆき) キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹 1982年東京大学経済学部を卒業した後、日本銀行に入行。政策委員会室企画役、米国ランド研究所への派遣を経て、2006年北京事務所長に。2008年に国際局企画役に就任。2009年から現職。(写真:丸毛透)

 共和党のブッシュ(子)政権で国務長官を務めたコリン・パウエル氏も、白人警官の暴行により黒人男性が死亡した事件に抗議するデモに対し、トランプ大統領が軍を動員して鎮圧しようとしたのを問題視し、「(トランプ大統領は米憲法から)逸脱している。私は(反対党である民主党の)バイデン氏に投票する」と反発しています。デモ鎮圧のための軍の動員については、現職の国防長官であるマーク・エスパー氏も反対を表明しました。

 大統領は米軍の最高司令官です。その大統領が軍出身の有力者らからこのように非難されている現状は非常に憂うべきものがあります。マティス氏もパウエル氏も良識ある誠実な人物として定評がありますし。

 マティス氏が言うように、トランプ大統領は米国内の分断を加速化させています。新型コロナウイルスの感染に対する行動にすら党派性が色濃くにじみ出るようになりました。マスクをすれば「民主党寄り」とみなされる、共和党支持者はマスクをしない、という状況です。

 一連の動きは、米国の伝統的価値観である個人の自由の尊重を強く求めると、それによって社会全体の安全・安心が失われるという矛盾が生じ、個人の自由と社会の安定との対立が激しくなっていることを表しているように思います。マスクはなぜつけるのでしょう。周りの人たちのためですよね。マスクをしても自分自身にとっての予防効果が期待できないことは誰もが認識しています。新型コロナウイルスに感染しているかもしれない自分が、周りの人を感染させてはならない。だから飛沫を飛ばさないようマスクを着用する。日本では、人に迷惑をかけないよう努力するのは人間として当然のことと受け止められています。

 一方、米国社会では、マスクの着用は「自分の自由を奪い束縛するもの」と考え、自分自身の自由を守るためにマスクの着用を拒否する人がかなりの割合を占めています。そもそもトランプ大統領自身がマスクを着用していません。米国ではマスクをする習慣がもともとなかったことも影響しています。

 米国は同様の問題をずっと前から抱えていました。例えば銃規制です。「身を守る」ためであっても、皆が銃を保有すれば、社会全体としての安全や治安は損なわれるリスクが増します。米国では銃の発砲による死者数が毎年約4万人と報じられています。それでも、銃による自衛は権利であり、自由であると考えられてきました。同様の考えが今、マスク着用を拒否する自由の主張という形で表れているのです。

 皆がそれぞれの自由を主張すれば、感染の拡大や治安の悪化を免れ得ません。よって、ルールをもって規制する必要が生じます。必要悪としてルールが存在する。米国は自由の主張が強くなっているがゆえに、ルールを偏重する方向に向かっていると思います。ルールと言えば聞こえがいいですが、その運用は州によって異なったり、規制する側が恣意的に運用できたりします。トランプ大統領のように、権力を持つ者がルールを執行するため「軍」を動員し、一般市民に銃口を向けることまで考えることもあるのです。もし実際に軍を投入すれば、それはかつて米国が厳しく非難した中国の天安門事件の再現になってしまいます。