
5月28日、中国の全人代(全国人民代表大会、日本の国会に相当)は「香港特別行政区の国家安全を確保するための法律制度及び執行メカニズムの構築、整備に関する決定」(以下「決定」と略称)を採択した。一部欧米諸国が強い反対を表明したのに対し、中国はあくまでも『決定』を貫徹する姿勢を貫いている。中国と先進民主主義諸国の対立の様相は、1989年の天安門事件直後の状況を彷彿(ほうふつ)とさせる。
国際経済、国際政治における中国の重要性は、あの当時と比較にならないほど大きい。香港問題の動向は、今後の世界情勢に多大な影響を及ぼすことになろう。香港問題をめぐって、中国と先進民主主義諸国は、なぜ対立を深めているのであろうか。今後、どうなっていくのであろうか。これらの点を読み解いてみよう。
中国は「形」を、英国は「実」を取った
香港は、歴史と政治が交わる場でもある。香港の歴史は、中国が植民地化される歴史と重なる。
今日、我々がいう「香港」は、香港島、九龍半島先端及び新界の3つの部分からなる。香港島は、悪名高いアヘン戦争により1842年に英国領となった。九龍半島の先端(約9.7平方km)は、アロー戦争(第2次アヘン戦争)により1860年に英国領となった。英国はさらに1898年 、中国(清朝)との租借条約により235の島を含む新界を99カ年にわたり租借した。つまり香港は、英国の領土及び租借地という2つの部分から成り立っていたのだ(参考記事「香港区議選が示したコンセンサス『中国本土化は困る』」)。
1949年10月、中華人民共和国が成立した。翌50年1月、英国は直ちに国家承認を行い、台湾(中華民国)との関係を切った。日本が中国を承認し、台湾との国交を断絶したのは、72年のこと。米国は79年になって、ようやくそうした。英国の中国承認がいかに素早かったかが分かる。第2次世界大戦後、47年にインドが独立し、植民地の維持は次第に難しくなっていた。植民地である香港の現状を維持し、経済的利益を確保する。これが英国の対中政策の重要な柱となった。
英国は、租借地の返還期限が97年に到来することを気にかけていた。そこで、82年から中国と返還交渉を開始した。英国は当初、租借地の新界だけを返すつもりだった。しかし、失われた領土の回復が孫文以来の近代中国の国家目標であり、中国が部分返還に応じるはずはなかった。84年、英国が譲歩し全領域の一括返還で交渉は妥結した。
もちろん何の見返りもなしに英国が譲歩するはずもない。譲歩の見返りが、香港の現状を維持し、返還が香港経済に影響を与えないという中国側の保証であった。その具体的な形が「一国二制度」といわれるものであり、英中の妥協の産物であった。中国は、香港が中国の一部となる領土回復という「形」を取り、英国は香港経済の持続という「実」を取った。
84年の「英中共同声明」は、そのことの具体的記述である。英国は限りなく「二制度」を重視した。中国は、この頃まで「一国」の意味するところについては踏み込まず原則論に終始した。
英国は老練だ。将来の担保として、この「共同声明」を中国とともに国連に登録し、条約に準ずる“国際約束”としての重みをつけようとした。現在、英国がこの「共同声明」を根拠に、中国の約束違反を責めているのは、こういう背景があるからなのだ。あの当時、国際法に対する中国側の理解は十分ではなく、恐らく、この英国の意図を100%正確には理解できていなかったであろう。
Powered by リゾーム?