
1989年6月4日に天安門事件は起こった。その1日前、私はG7サミットの政治部門を担当する企画課長に就任していた。その年、7月14日からフランスが主催するG7サミットが予定されていた。自由と人権を象徴するフランス革命200周年の年だというので、フランスはすぐにこの事件を人権問題として大々的に取り上げることを決定した。
私も、この大波の中に放り込まれた。世界中から打ち込まれてくる情報に目をこらしたが、北京で起こっていることを正確に把握している国はなかった。外交の現場とはそういうものだ。
翌年、私は中国課長となり、天安門事件への対処とその後の日中関係の修復が、外務省時代に関わった大きな仕事の一つとなった。G7諸国の了解を得ながら、米中の間にあって中国を徐々に国際社会に復帰させる上で、日本外交は主導的な役割を果たした。対中経済協力の再開と、海部俊樹首相(当時)の訪中、さらには中国のNPT(核不拡散条約)体制への参加を実現させた。
欧米は、この事件を人権問題として扱った。自由の女神像を押し立てて進む無防備の学生たちに、軍隊が戦車まで動員し、発砲し、多くの犠牲者を出した――というのがあの当時の世界が持つイメージだった。つまり自由と民主を求める学生や市民を当局が圧殺したと判断した。欧米社会は激怒し、中国に対し厳しい制裁を科すことを求めた。
日本社会には人権問題に対して欧米ほど強い思い入れはなかったが、それでも若者を軍隊が鎮圧する光景は、中国当局に対する厳しい批判と反発を呼んだ。中国に対する“贖罪(しょくざい)意識”(戦前の中国に対し悪いことをしたという意識)が薄れ、一部の人が抱いていた“社会主義”中国への思い入れもなくなった。日本国民の中国に対する好感度は大きく低下した。
日本政府は、人権問題として捉えるだけではなく、中国を国際社会に巻き込み続ける必要があると判断していた。毛沢東時代の、世界を敵視し孤立する政策から、78年にようやく改革開放政策に転換し、世界に扉を開いていたからだ。天安門事件は改革開放政策の危機でもあったのだ。
人権問題で露呈した中国と欧米との亀裂は、実は体制の持つ価値観の違いであり、方向性の違いであった。しかも、中国内部には一貫してせめぎ合う路線対立が存在しており、政治やイデオロギーを重視する“保守派”が経済を重視する“開明派”を凌駕(りょうが)するとき、欧米との対立はより顕在化する。この構造は今日でも変わらない。中国が世界における存在感を増すと、それがはっきりと見えてくる。現在進行形の米中対立が、そのことをわれわれに突きつけている。
天安門事件を引き起こした3つの伏線
天安門事件は中国の国内政治の転換期に、ソ連・東欧の激変が重なり生起した。今、振り返れば、中国の将来に決定的な影響を及ぼした、実に重大な出来事だった。今日の中国共産党のありようを規定したからだ。
ここに至るには3つの伏線がある。その1つが、1976年4月の第1次天安門事件だ。日本のお盆に当たる清明節の4月に、同年1月に死去した周恩来総理をしのび天安門広場に多数の民衆が集まった。これが、新中国建国以来、初めての国民による自発的で大規模な“異議申し立て”となった。文化大革命(文革)を牛耳っていた四人組と、当時進行中の文革を批判したのだ。これが第2次天安門事件、つまりわれわれのいう天安門事件の前例となった。
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