ISが発表資料に掲載した“実行犯”たちの写真(写真:AAMAQ NEWS AGENCY/AFP/アフロ)
ISが発表資料に掲載した“実行犯”たちの写真(写真:AAMAQ NEWS AGENCY/AFP/アフロ)

 スリランカ各地で4月21日、同時多発的にテロ事件が発生した。この日はキリスト教の祝祭イースターに当たり、狙われたのがキリスト教の教会や外国人が多数集まる高級ホテルであったこと、自爆という方法が取られたことなどから、過激派組織「イスラム国」(IS)の関与がすぐに疑われた。ISは前任組織であるアルカイダ・イラク支部のころから、類似の事件を数多く起こしてきたからである。

 そして、実際、事件2日後、ISが運営する通信社とされるアァマーク通信がアラビア語による速報で、スリランカでの攻撃実行者がISの戦士たちであり、「有志連合諸国の国民とキリスト教徒」を標的にしたものであると報じた。また、ISはその後、「スリランカ」名義でアラビア語の犯行声明も出した。ほぼ同時にアァマーク通信は事件の詳報を伝え、さらに、彼らが実行犯だと主張するグループの映ったビデオも公開した。このなかで「実行犯」たちは、ISの「国旗」らしき黒い旗の前でIS指導者、アブー・バクル・アル・バグダディに忠誠を誓っている。

  ISは犯行声明を出すとき、事件の起きた場所がISの「県(ウィラーヤ)」あるいは「州」ないしはその近辺であれば、その県名で犯行声明を出す。イラクだったらイラク県名義、サウジアラビアであればナジュド県名義というぐあいである(もちろん、実際にISが統治しているかどうかは無関係)。

 南アジアでは、アフガニスタン・パキスタン、カシミール地方はホラーサーン県に指定していたが、インド本土やバングラデシュ、スリランカなどはISが「統治」していない空白地帯であった。こういう場合、ISは、スリランカのケースに見られるように、単に「地名」だけを出して犯行声明を出す。ここから場合によっては「県」に昇格する場合もある。ISは実際、スリランカの事件ののち、「トルコ県」「インド県」「パキスタン県」の設置を明らかにした。

  もちろん、こんなものは仮想的・名目的なものにすぎないのだが、それぞれの「県」にいるIS支持者は、自分たちがIS本体から重視されたと考え、張り切って事件を起こしてくれるかもしれない。劣勢に陥ったISは昨年秋ごろから、「県」の再編を進めており、つい最近も、その流れで作られた「中央アフリカ県」がコンゴ民主共和国で立て続けに事件を起こしている。いずれにせよ、新たに県となったところでは、ISの活動が活発化する恐れがあり、注意が必要であろう。

 しかしながら今回のスリランカの事件で、ISの関与がどの程度だったのかは正直なところわからない。事件の発生からISが犯行を認めるまで、若干の時間差があり、さらにIS側の報道や公式犯行声明とスリランカ側の発表にいくつもの齟齬(そご)があるからだ。しかし、実行犯たちの画像や動画(の、少なくとも、一部)がISの公式チャンネルから配信されたことは、実行犯とISのあいだに少なくとも何らかのつながりがあったことを示している。事件のすぐあとにISが公開した動画でも、バグダディ自身がスリランカの事件を、有志連合軍がシリアにおいてISを攻撃したことへの報復として称賛している。事件そのものとISのイデオロギーのあいだに矛盾は少なかったとみていいだろう。

スリランカとISの意外な共通点

 「仏教国」スリランカではイスラームは少数派であり、全人口の10%弱を占めるにすぎないといわれている。しかし、すでに2016年の時点で少なくとも32人がシリアに渡航、ISに参加していたことが明らかになっている。

 中東や欧州諸国だと百人、千人単位でISに参加しているので、ISからみれば、スリランカの役割などそれほど重要ではないのかもしれない。だが、ISの英文機関誌だった「ダービク』は2015年11月に発行した第12号で、スリランカ人のIS戦闘員についてくわしくフィーチャーした記事を掲載した。「信仰者のなかに『男』がいる」という連載的なコーナーで、ISからみれば「殉教者」、それ以外からみれば「殺害されたテロリスト」の話を紹介している。そして第12号で「アブー・シュレイフ・シーラーニー」という人物を取り上げた。

 シーラーニーとはアラビア語で「スリランカ人」を意味する。この名前はもちろん偽名である。当時の報道とあわせて、人物像を再構築すると、本名は、Mohamed Muhsin Sharfaz Nilam、スリランカ中部のKandyにあるWarallagamaの住民で、パキスタンの国際イスラーム大学でイスラーム法を勉強したのち、スリランカに戻り、コロンボ大学でウルドゥー語を教えるなどしていた。その後、KandyのGalewalaで学校の校長をやっていたとのこと。

 2015年1月、妊娠中の妻と6人の子ども、そして両親を連れて、シリアに渡っていたとされている。そして2015年7月にシリア政府軍の攻撃、あるいは米軍の空爆によってラッカで殺害されたという。

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