キエフ攻防戦の悪夢

 ロシア軍のウクライナの諸都市に対する猛攻はやむ気配がない。3月4日には、ロシア軍が欧州最大のザポロジエ原子力発電所を攻撃し、研修施設に火災が発生した。原発が軍事攻撃の対象になったのは、初めてのことだ。1986年のチェルノブイリ原発事故で深刻な放射能汚染を経験したドイツでは、市民が強い不安を抱いている。政府は公共放送を通じて「原子炉事故に備えて、あらかじめヨウ素剤を飲むのはやめてほしい。健康を害する恐れがある」と呼びかけた。

 「ウクライナの非ナチ化」を目指すプーチン大統領の最大の目標は、ウォロディミル・ゼレンスキー政権を崩壊させて、親ロシア派による傀儡(かいらい)政権を樹立することだ。ロシア軍はそのために首都キエフ(キーウ)を包囲して外部からの補給を断ち、陥落させることを狙っているようにみえる。ロシア軍は戦車、自走榴(りゅう)弾砲などをキエフ周辺に集結させつつある。

 キエフの人口は約290万人。第2次世界大戦末期のベルリン攻防戦以降、これほどの大都市をめぐる市街戦が行われたことは欧州で一度もない。

 ロシア軍は2月24日から数日間の電撃作戦でキエフを占領しようと試みたが、ウクライナ軍の激しい抵抗のために失敗した。特に、キエフ近郊の空港に着陸を試みた2機のロシア軍輸送機が、ウクライナ軍の対空砲火によって撃墜されたのはロシア軍にとって打撃だった。このため約400人の空挺(くうてい)部隊員が死亡した。西側軍事筋は「ロシア軍がキエフ付近の制空権を確保しないまま、ウクライナ軍の防空網が生き残っている地域に無理に着陸を試みたことが原因」と指摘している。

 このためロシア軍は戦術を変更した。ハルコフやマリウポリなどの町では、ロシア軍が、軍事施設だけでなく市街地も無差別に攻撃し始めた。戦闘爆撃機による空爆のほか、ミサイルや多連装ロケット砲、榴弾砲などを投入している。ウクライナ政府の発表によると、砲弾やミサイルが高層団地や学校、病院などを直撃し、2月24日~3月2日までに約2000人の同国民が死亡した。マリウポリでは水、食料、電気、暖房、医薬品の供給が途絶え、病院は負傷者と病人であふれている。

 兵士や非戦闘員に恐怖を与えて士気を阻喪させ、政府から離反させることが狙いだ。ウクライナ政府は「国際条約で禁止されているクラスター爆弾もロシア軍が使っている」と非難。親爆弾が地上に到達する前に割れて、たくさんの子爆弾をばらまく構造なので、特に対人殺傷能力が高い兵器だ。ウクライナのゼレンスキー大統領は、市街地に対するロシア軍の攻撃を国家によるテロと非難した。

 ロシアは、1994~1996年の第1次チェチェン紛争もこの戦法で戦った。1994年12月から約2カ月続いたグロズヌイ攻防戦では、ロシア軍の無差別砲撃・爆撃によって町の中心部が廃虚となり、市民約3万人が死亡した。町の人口約30万人のうち10%が犠牲になったことを意味する。キエフの人口は、グロズヌイの約10倍である。

 ロシアは2015年、シリアのアサド政権を支援するため、アレッポなどを空爆した。このときにも病院など民間施設を無差別爆撃し、多数の死傷者を出した。

 いま、ウクライナ正規軍だけではなく、まともに軍事教練を受けていない学生、弁護士、サラリーマン、作家、ヒップホップ歌手、バレーダンサーなど多くの市民が民兵部隊に加わり、自動小銃と火炎瓶でロシア軍の戦車と戦おうとしている。市民たちは、鉄材を溶接して作った対戦車バリケードを路上に設置し、ロシア軍の進撃を防ごうとしている。米国ウエスト・ポイント士官学校で教壇に立つ市街戦の専門家、ジョン・スペンサー大佐が書いた教本「市街戦のためのヒント」をキエフ市民たちは貪るように読んでいる。ウクライナ語に訳されたものがインターネット上に上がっている。キエフに対する総攻撃が始まれば、民間人に多数の死傷者が出る可能性が高い。

 ロシア側がキエフ陥落前に停戦に合意する可能性は低い。フランスのエマニュエル・マクロン大統領は3月4日、プーチン大統領の求めに応じて90分間にわたって電話会議を行った。マクロン大統領はその後「プーチン大統領は、ウクライナの武装解除と非ナチ化を達成するまで攻撃をやめないと私に語った。最悪の事態はこれからやって来る」と強い危機感を表明した。

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