一族はインドネシアに進出したハドラミーの可能性

 イエメンのハドラマウトにあるタリーム地方にはかつて「アール・ヤマニ」という名の小さな領域があった。ヤマニの名前はここからきている可能性がある(現在でもディヤール・ヤマニとして地名が残っている)。祖父がイエメン出身であり、祖父・父ともインドネシアやマレーシアなど東南アジアと結びつきが強いことからも、ヤマニ一族はハドラミー(ハドラマウト出身者の意)かもしれない(インドネシアやマレーシアには大きなハドラミー・コミュニティーが存在する)。

 また、ヤマニ家が属していたシャーフィイー派法学はイエメンの過半数を占める多数派であり、ハドラマウト地方の住民も大半がそのシャーフィイー派である(そして、マレーシアやインドネシアもシャーフィイー派)。

 付け加えると、サウジアラビアにも、ビン・ラーデン(以下、ビンラディン)家やビン・ザグル家など多くのハドラミーが移住している。特にメッカやジェッダに集まり、ビンラディン家のようにサウジアラビアを代表する巨大財閥になっているところも少なくない。

 なお、「ヤマーニー」は、日本語メディアでは一般に「ヤマニ」とカナ表記され、英語メディアでは「Yamani」とされる。一方、イエメンでは、正則アラビア語でal-Yaman(アル・ヤマン(「al-」は定冠詞))とされる。語尾に所属を示す形容辞「ī」をつけ、「ヤマニー」とすると、「イエメン人」「イエメン出身」の意味になる。そこから「ヤマニ」一族がイエメン出身であると説明されることも多いが、この説明のしかたは間違いである。

王家の政争のあおりで石油政治の表舞台に

 さて、アハマド・ザキー・ヤマニは、幼少時は父から宗教教育を受けた。高等教育としてはエジプトに留学、1950年代初頭にフアード1世国王大学(現カイロ大学)を卒業した。その後に渡米し、ニューヨーク大学やハーバード大学で法学の修士号を取得した。帰国後、サウジアラビア最初の欧米式の法律事務所を設立。並行してフェイサル皇太子(のち国王)のもとで内閣の法律顧問、さらに1960年には国務相となった。

 また、日本の、今はなきアラビア石油とサウジアラビア政府が1957年に結んだ石油利権協定でも契約書を作成したのはヤマニだといわれている。

 当時、サウジアラビアは国王のサウードと皇太子のフェイサルの間の対立が激化。結局、後者が勝利を収め、その結果、国王側(より正確にいうと、いわゆる「自由プリンス」側)についていた、石油相のアブダッラー・タリーキーが解任された。「赤いシェイフ」とも呼ばれ、OPECの生みの親でもある人物だ。

 このタリーキーの代わりに、ヤマニが1962年、石油相に任命されたのである。ヤマニはフェイサルに近かった。タリーキーがアラブ民族主義者であったのに対し、ヤマニは、先に触れたように宗教的家系に生まれた。タリーキーが石油の技術者出身であったのに対し、ヤマニは法律家であり、本来、畑違いではあった。だがヤマニは1961年、前年に設立されたばかりのOPECのサウジアラビア代表(理事)となっていたこともあり、石油についてはそれなりの知識と経験があった。これが就任に影響したのであろう。

日本に石油依存の転換うながす

 ヤマニの名前が一躍知られるようになったきっかけは、何といっても、1973年の第4次中東戦争の勃発とそれに伴う第1次石油ショックの発生であった。

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