このシャーズィリーの回顧録が、北朝鮮空軍パイロットによる第4次中東戦争への参戦についての最も詳しい資料になる。他には『金日成全集』や『自主偉業の偉大な首領金日成同志』『労働新聞』の記事など北朝鮮で出版された文献に、参戦の状況が記されている。

ソ連との仲たがいを機に、エジプトが北朝鮮に接近

 どうして、北朝鮮は第4次中東戦争に参戦したのであろうか? 北朝鮮が第4次中東戦争に参戦したきっかけは、エジプトとソ連の仲たがいだった。1970年代初頭、エジプトは、ソ連の支援を受けながら対イスラエル戦の準備をしていた。エジプトは、1967年6月に勃発した第3次中東戦争でガザ地区とシナイ半島をイスラエルに占領された。その復讐(ふくしゅう)のためでもある。1970年9月28日に大統領に就任したアンワル・アル・サダトが推進した。

 しかし、1972年7月18日にサダトは、エジプト政府がソ連軍事顧問団に撤収を要求し、すでに撤収が始まっていることを明らかにした。ソ連と仲たがいしたのである。エジプト軍参謀総長であったシャーズィリーは焦った。ミグ21戦闘機75機を運用していた約100人のパイロットをソ連が引き揚げて、パイロットが不足したからである。

 そこに1973年3月1~7日まで、北朝鮮政府代表団がエジプトを訪問した。団長は、副主席の康良煜(カン・リャンウク)。シャーズィリーは、この北朝鮮政府代表団に問題解決の光を見つけた。3月6日にシャーズィリーは、北朝鮮政府代表団に加わっていた人民武力部(日本の防衛省に相当)副部長である張正桓(チャン・ジョンファン)に、飛行中隊を1隊送ってくれるように持ちかけた。そのため、張正桓は金日成の承諾を得るために、代表団と別れて、直ちに北朝鮮に帰国した。張正桓は2週間後にエジプトを再訪し、金日成の同意を得たことを伝えてきた。ただし張正桓は、シャーズィリー自らが北朝鮮を公式訪問し、パイロットたちを直接接見してほしいと要請した。

 シャーズィリーは1973年4月2日、エジプトを発ち、平壌に向かった。途中、上海に立ち寄り、平壌に到着したのは4月6日であった。シャーズィリーの平壌訪問は、当時、大歓迎を受け、北朝鮮でも大きく報道された。シャーズィリーは、軍最高指導部や政府首脳陣たちとも面会や協議をしており、メディアはそれらを逐一取り上げた。

 北朝鮮側の狙いは、中東の大国であって第三世界の雄であるエジプトとの親密ぶりを宣伝することにあった。1960年代の中ソ対立によって社会主義陣営に頼ることが難しくなっていた北朝鮮にとって、エジプトと親密になって、第三世界の一員になることは当時の夢であった。シャーズィリーの訪朝は、第三世界への大きなアピールになったはずである。ただし、朝鮮人民軍空軍のエジプト派兵については報道されなかった。これはやはり機密だったのだ。

 北朝鮮の空軍パイロットを接見したシャーズィリーは、2000時間以上の操縦歴がある彼らの能力に満足し、彼らにエジプト軍パイロットと同じ1エジプトポンドの給料を払うことを約束した。そして、北朝鮮のパイロットは、最後方の任務に就かせ、イスラエル国内やイスラエルが占領した地域では戦闘させないことを約束した。4月15日にシャーズィリーは帰国の途に就いた。彼の生涯で、最も行きにくい場所への旅路であった。

北朝鮮飛行中隊の秘密の派遣

 5月28日、金日成は、派兵されるパイロットたちと会談した。さらに金日成は、派兵をイスラエル側に探知されないようパイロットたちに厳命した。しかし、それはすぐに探知されることになる。6月初頭に北朝鮮のパイロットたちがエジプトに到着し始めた。7月中に彼らが所属する飛行中隊の編成が終わった。その空軍部隊は、エジプトにとっては小規模なものであった。シャーズィリーによると、パイロット30人、航空管制官8人、通訳5人、指揮官3人、医者と料理人が各1人であった。ソ連が引き揚げたパイロットが約100人であったことを考えれば、シャーズィリーが「おそらく歴史上最も小さな国際援軍」と評価したように、エジプトが小規模なものに感じたことは間違いないであろう。

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