新型コロナウイルスの感染が拡大を続けている。そんな中、中国を支援しようという日本の取り組みを称賛する声が中国で高まっているという。「これを機に、日中で協力できることがたくさんある」。中国経済の動向に詳しい瀬口清之・キヤノングローバル戦略研究所研究主幹はこう語る。医薬品の開発、パンデミックへの共同対処、個人情報の活用方法の学び、などだ。
(聞き手 森 永輔)
新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐべく、本土との境界を閉じるよう求める香港の医療関係者 (写真:ZUMA Press/アフロ)
新型コロナウイルスの感染が拡大を続けています。湖北省・武漢市は1月23日、市外に向かう鉄道駅や空港を一時閉鎖するなど事実上封鎖する措置に踏み切りました。これには驚きました。さらに、同様の措置が他の都市にも広がっています。
瀬口 清之(せぐち・きよゆき)
キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹 1982年東京大学経済学部を卒業した後、日本銀行に入行。政策委員会室企画役、米国ランド研究所への派遣を経て、2006年北京事務所長に。2008年に国際局企画役に就任。2009年から現職。(写真:丸毛透)
瀬口:本当にそうですね。実は中国は同様の措置を以前にも講じたことがあります。清朝末期の1910年、肺ペストがまん延したことがありました。当時の中国はロシアに毛皮を輸出していました。これがペスト菌を媒介したのです。そして、次第にヒト・ヒト感染するようになり、街が一つまた一つと全滅していった。この時、伍連徳という公共衛生の専門家が知恵を出して、街や村に通じる街道を封鎖し、ペスト菌の感染拡大を収束させたのです。中国政府の決断には、この時のことが念頭にあったのでしょう。
同政府の対応に批判もありますが、できる範囲でかなりの努力をしていると思います。中国事情に詳しい筋からの情報によれば、1月17日には、新型コロナウイルスによる肺炎が急拡大しているとの情報が衛生部に報告されたと聞いています。それが同19日に習近平(シー・ジンピン)国家主席に伝わり、同氏は「情報を隠してはならない」「なぜもっと早く報告しなかったのか」として責任者を厳しく叱責し、万全の態勢で臨むよう指示を出しました。その後、現場の情報は滞りなく中央に上がっており、国民もそう信じているようです。
今回の件で、初動が遅れた原因は地方・中央政府関係部門の実務部隊の対応が不適切だったことにあり、それに対して中央政府が管理監督を強化してそうしたことが繰り返されることのないよう厳しい姿勢で臨んでいるというのが中国国内での一般的理解であると聞いています。したがって、この問題で習近平政権の求心力が低下しているという話は耳に入ってきません。
「投資」主導から「消費」主導へのシフトが影響を拡大
今後、中国経済に与える影響はどれほどの大きさになるでしょう。2020年1~3月期の成長率が5%かそれ以下に落ち込むとの見方が出ています。
瀬口:非常に大変な事態に陥る可能性があると見ています。5%で済めば上々でしょう。これからの状況次第ですが、私は3%台、あるいはそれ以下に落ち込んでもおかしくないと考えています。最悪の場合にはマイナス成長でしょう。
企業や学校の春節の連休を延長し、2月9日まで新学期の開始延期や出勤停止の措置を取る地方政府が増えています。1月24日の春節休暇の初日から数えると出勤停止期間は17日間に及びます。それも北京、上海、武漢、広東省、江蘇省など20以上の主要省市を含んでいる。業務を停止しているのは工場にとどまりません。多くの店舗が営業も取りやめている。eコマースを通じて商品・飲食を配送する一部の小売・飲食店を除いて生産も消費も止まってしまっているのです。
17日間にわたって経済がまるまる止まるということは、1年(52週)のうち約4%を失うということです。仮に揺り戻しを考えずに、この影響をすべてかぶれば、通年の成長のうち約4%を失うことになる。1~3月期に限って言えば、90日分の成長のうち17日分、すなわち約20%分を失うことになります。その影響は甚大です。
この事態がもたらす影響はSARS(重症急性呼吸器症候群)がもたらした影響の比ではないと予測されます。実は、SARS騒動が中国のマクロ経済に与えた影響はそれほど大きくはありませんでした。前の年である2002年の実質GDP成長率が9.2%だったのに対し、2003年はそれを上回る10.0%成長しています。翌2004年も10.2%成長でした。
2003年実質GDP成長率を四半期ベースで見ると、1~3月期は11.1%、4~6月期9.1%、7~9月期は10.0%。WHO(世界保健機関)がグローバルアラートを発したのが3月12日、終息宣言を出したのが7月5日なので、4~6月期がもろに影響を受けたわけです。それでもこの期間は9.1%成長。2003年通期で見れば、この影響を他の期の成長が吸収して2けた成長を達成しました。
なぜ、この時はマクロ経済に与える影響がそれほど大きくなかったのか。それは、当時の経済構造が「投資」主導だったからです。03年の実質成長率の内訳を見ると、外需が△0.6%、消費が3.6%、投資が7.0%。当時の中国は高度成長期にあり日本を含む諸外国の企業が労働集約的な仕事をどんどん中国に移していました。SARSの騒動で消費が落ち込んでも、旺盛な投資がこれを補って余りあるほどだったのです。加えて、今回と異なり、出勤停止の措置も取られず、多くの工場、特に沿岸部の工場は通常通り稼働していました。
今日、中国の経済構造は大きく変化し「消費」主導になりました。19年の実質成長率の内訳は外需が0.7%、消費が3.5%、投資が1.9%です。したがって、消費が落ち込めば、経済全体に多大なインパクトを与えるのです。
中国の経済規模の拡大が、このインパクトを世界に波及させます。中国のGDP(国内総生産)が世界のGDPに占める割合は03年には4.3%でしたが、19年は16.3%にまで高まりました。従って、中国経済の落ち込みは03年に比べて約4倍の大きさで世界経済に衝撃を与えることになります。
日本企業にはどのような影響が考えられますか。
瀬口:中国に製品を輸出している業種には大きな影響があり得ます。まず自動車関連。それから紙おむつ、衣料などでも影響を受ける企業があるでしょう。ある衣料大手は、製品を中国で製造して、日本で検査し、それを再輸出して中国市場で販売しています。ある消費財メーカーの方は「2月の中国での販売見込み額はとりあえずゼロとするしかない」と話していました。
全人代、訪日の延期もあり得る
経済にそれだけ大きなインパクトが生じるのを覚悟で、習近平国家主席は都市封鎖という思い切った施策を実行したということですか。
瀬口:その通りです。そこまでしないと、このウイルスに対処できないと考えたのでしょう。
3月に予定されている全人代(全国人民代表大会、日本の国会に相当)の開催を危ぶむ声が出始めました。
瀬口:確かに開催が危ぶまれます。今の予定通り、出勤停止が2月9日までで済めば開催できる可能性もあるでしょう。しかし、春節の連休が再延長される可能性も否定できません。感染者の数の増え方がものすごい勢いで加速しているからです。
加えて、武漢で火神山医院が診療を開始します。新型コロナウイルスの感染者専用の病院で、1000人の患者を受け入れ可能といわれています。この病院で診療が本格化すると、他の病院で断られていた人たちも診療を受けられるようになる。これまで、各病院の収容力が足りず、病院の前の道端で亡くなっている人さえいました。火神山医院の稼働開始は朗報ではあるのですが、病院での診察が受けられるようになることによって新型コロナウイルス感染者がきちんと把握されるようになれば、統計上はこれが感染者数をさらに増やすことにつながります。
仮に全人代が開催できなかったら、習近平政権の責任を追及する声が上がりますか。
瀬口:中国共産党の中で、全人代が開催できないことをもって習近平政権の責任を追及しようという動きは今のところ見られません。もし、そういう意図があれば、現時点でそうした声が上がっているでしょう。ですが、そうした動きが見られているという情報は聞いていません。
多くの国民が現状を「非常事態」と認識しており、対ウイルスの「人民戦争」を習近平国家主席のリーダーシップの下で戦い抜く、という意識でいます。「人民戦争」は中国政府がこうした雰囲気を醸成すべく利用したプロパガンダの表現です。これがうまく機能している状況です。
4月に予定されている、国賓としての訪日への影響をどう見ますか。
瀬口:事態が収束しなければ、習近平国家主席の方から延期を申し入れてくるでしょう。中国共産党の最高幹部は、国内で大事が起きている最中に国を離れることはできません。危機管理の最高責任者ですから。この点はどこの国の政治家も同じですね。
訪日を延期することになっても、日中関係に影響するとは考えていません。むしろ、日本はこれを奇貨として、中国がこの困難を乗り越える手助けをすべきです。そうすれば、改めて訪日が実現した際に、関係を一層強化することができます。
「危機の現場から離れない」という観点では、習近平国家主席はまだ武漢を訪れていません。一方、李克強(リー・クォーチャン)首相が1月27日に武漢入りしました。これが、習近平国家主席の立場を悪くすることはありませんか。「習近平国家主席はいつ武漢を訪れるのか」と注目する向きがあります。
瀬口:私は、それはないと考えます。習近平国家主席が武漢入りして、仮にウイルスに感染し命に関わるようなことがあれば一大事です。同氏が武漢入りするとすれば、事態がある程度安定してからでしょう。
それに李克強首相は、習近平国家主席に命じられ政権を代表して武漢入りした、という立場だと思います。中国の政治体制では、緊急事態への対応は政府(国務院)が担当することになっています。共産党ではなく。よって、国務院の長である李克強首相、孫春蘭副総理、衛生部長、武漢市長が現場での責任者ということになります。
日本の「中国 がんばれ」を中国が称賛
瀬口:日本との関係について付け加えると、中国で今、日本に感謝し、日本を称賛する声が高まっています。
え、日本を称賛しているのですか。
瀬口:そうです。中国に滞在する邦人を帰国させるべく、安倍政権が1月28日、武漢にチャーター機を派遣しました。この時、マスク約1万5000個、手袋5万ペア、防護メガネ8000個などを支援物資として持ち込んだことが高い評価を受けました。
この意義について語った、二階俊博・自民党幹事長の発言も中国に好感されています。同氏は「隣のうちが火災に見舞われたとか、急病で困っておられる時に助けに行く。そういう気持ちと同じですよ」。この発言を伝えた動画は中国で200万回も再生されたそうです。
民間企業もさまざまな支援に取り組んでいます。イトーヨーカドーは1月24日、四川省の成都市政府にマスクを約100万枚寄付しました。これを感謝する投稿がSNS(交流サイト)に数多く上がりました。
ツムラも駐日中国大使館に500万円を寄付しています。「防護服や医療用マスク・ゴーグルなどの調達にあてていただく予定」といいます。同社は漢方薬の原料の多くを中国に依存していますから、中国の人々の苦しみは他人事とは思えないのでしょう。
また、日本のドラッグストアの“神対応”も、中国国内のSNS(交流サイト)で数多く取り上げられています。日本を訪れる中国人がマスクを爆買いしています。これに応じて、マスクを値引き販売したというのです。マスク売り場に「中国 加油(がんばれ)」「武漢 加油」「Love China」などと書かれたポップが添えられている写真もアップされています。
東日本大震災が2011年に起きた時、台湾が200億円を超す義援金を送ってくれました。私は今でもそれが忘れられません。困った時の助けほど、人の心に残るものです。日本政府や民間の行動がもっと拡大し、伝えられるといいですね。
瀬口:そうですね。安全保障や外交では日本と中国の間に国境という一線がありますが、病気の感染、観光、そして経済、社会、文化交流においてこの一線はありません。今回の件で、両国が不可分の関係にあることを改めて認識させられたと思います。「相手の悲しみを自らの悲しみとして、できる限りのことをしてあげたい」。そうした相手から思いやりの心を受けた側は心からの感謝と悦びを感じる。両国の国民がそう感じ合える機会になった気がします。
この心の原点は元々中国から日本に伝わってきた仏教の「慈悲の心」にあります。日本と中国は伝統精神基盤を共有しているので心と心が通じやすいのです。今回の出来事が令和の時代に日本が進むべき道を示すことになったのではないでしょうか。
中国に学べ、個人情報をいかに利用したのか
新型コロナウイルスの感染拡大を機に、日本企業と中国企業の間で新たに協力できることはありますか。
瀬口:いろいろ考えられます。一つは医薬品の共同開発。今回の新型コロナウイルスやその亜種が再びまん延する事態に備えて、予防薬や治療薬を共同で開発する。
今回のウイルス禍を、中国人民解放軍が細菌兵器を開発していて、これが研究施設の外に漏れ出した、と見る向きがあります。私はそうは思いません。中国の食習慣上、野生の動物と接触する機会が頻繁にあります。これらの動物が持つウイルスは、ふだんは人に感染しないけれども、時に、人に感染するよう変異することがある。先ほどお話しした1910年の肺ペストも、2003年のSARSも、そうした事態でした。今回も同様だと考えます。
したがって、将来、似たようなことが再び起こる可能性が残る。なので、日中で情報を共有し、共同で備えを整える。もちろん韓国や台湾に、さらには米国や英国に加わってもらうのもよいでしょう。
中国の医薬品業界の実力はいかほどですか。
瀬口:中国には漢方がありますが、その実力はそれほど高くはありません。しかし、この業界は既得権益化していて、漢方と西洋医学との協力が進んでいません。漢方の技術者は、その都度、たんすのような箱から薬草などを取り出し、手で刻み、調合する状態を続けています。それが、彼らにとって権威なのです。
一方、日本のツムラ、クラシエ、小林製薬などは漢方薬を西洋医学の精度で調合する技術を持っています。今回の経験が、中国の漢方を家庭でも簡単に服用できる西洋医薬のような一般薬として広げるための日中協力のきっかけになればよいと考えます。
マスクやトイレの共同開発は商業ベースに乗る協力ができると思います。感染をさける性能が高いマスクや抗菌性に優れた便器ですね。絶対売れるでしょう。
日本にもメリットがあります。こうした協力をする中で、中国がSARSや新型コロナウイルスの感染拡大で経験したことを教えてもらう。そうすることで、将来、パンデミック(世界的な大流行)が起きても、感染の急拡大を防ぎ、慌てずに対処することが可能になります。
先ほど、火神山医院に触れました。わずか10日で建設――というスピードに驚きました。この技術も学ぶ価値があるのではないでしょうか。東日本大震災のような大きな災害があった時に、現地に短期間で病院を建てることができれば、多くの人を救うことができます。アフリカで感染症が拡大した時など、国際協力に応用することもできますよね。
中国が今回の新型コロナウイルスを収束させるのに個人情報をどのように生かしたのかも日本が学べる点でしょう。感染の拡大を抑えるべく、中国政府が医療情報をはじめとする個人情報を利用した可能性があります。どのような医療情報が防疫にどのように生かせるかは、研究しておくべきテーマです。もちろん、国の体制が異なるため、日本が中国と同じように個人情報を収集したり利用したりすることはできないでしょう。しかし、研究は必要です。
例えば、中国では既に、IT技術を活用して、個人情報の集中管理と分析を基に利用者の健康状況を把握し対処する遠隔医療サービスが提供されています。新型コロナウイルスへの感染を懸念する人がSNSの「微信(ウィーチャット)」を通じて病院に登録し、自分の健康情報を送る。病院はそれを監視していて、その人の容体が一定以上に悪化するとその人の自宅に迎えに行くそうです。中国の方が社会全体にスマホが普及しているし、遠隔治療も進んでいるのでできる取り組みですね。日本が将来、遠隔医療体制の構築に取り組む際に、大いに参考になるシステムであると思います。
どの人を来院させるべきか、判断するのにAI(人工知能)を使っているかもしれませんね。
瀬口:はい。次世代通信規格5Gが普及すれば、中国の医療サービスはさらに進むことでしょう。
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