ただし、その一方で、革命防衛隊をはじめとするイランの対米強硬派はイラクを舞台に抵抗活動を続けました。例えば2018年9月には、イラクの首都バグダッドの米大使館近くにロケット弾と迫撃砲を、イラク南部バスラの米領事館近くにロケット弾を撃ち込んでいます。この1月に起きた一連の出来事の伏線はこの頃からあったわけです。

こうした抵抗に手を焼いていた米国は19年4月、革命防衛隊をテロ組織に認定しました。イスラム過激派組織「イスラム国(IS)やアフガニスタンのアルカイダと同列の扱いにしたわけです。従って、今回、ソレイマニ司令官を殺害しても米国の国内法的には何ら問題がないわけです。ISの指導者アブバクル・バグダディ容疑者を殺害したのと変わりないわけですね。
「戦略的忍耐」を「最大限の抵抗」に変えた全面禁輸
戦略的忍耐を進めていたイラン政府を怒らせ、この姿勢を変えさせたのが、③イラン産原油の全面禁輸です。これによりイランの原油輸出量は現在、日量20万~30万バレルにまで減少しています。オバマ時代は、制裁下であっても同100万バレルは輸出できていました。密輸も可能だった。しかし、衛星を使った船舶のトラッキングなどの技術が進歩し、今は密輸も容易ではありません。シリア向けの輸出は 19年1月の時点でゼロになっています。
原油に依存するイランとしては、とてもやっていけない状態に追い込まれたわけです。戦前の日本を思い出してください。エネルギーの全面禁輸は国家を「窮鼠(きゅうそ)猫を噛(か)む」状態にしてしまいます。
じり貧になることを恐れたイランは、戦略的忍耐に見切りをつけ、「最大限の抵抗」戦略にかじを切りました。ターゲットは米政府施設と石油関連施設です。イラクに駐留する米軍を狙ってロケット弾を撃ち込んだりするようになりました。米軍を攻撃する力があることを示したわけですね。事態を重視した中東に米軍は空母を派遣し、抑止力を高める措置などを取りました。
19年5月以降、ペルシャ湾の周辺でタンカーが攻撃されるようになったのは、このイランの政策変更の表れです。自分たちに原油を輸出させないのなら、ほかの国も原油を輸出できなくする、との意思表示といえるでしょう。
イランの「最大限の抵抗」への方針転換は、ある程度の成果を上げました。対話の機運が盛り上がり始めたのです。フランスのエマニュエル・マクロン大統領が米・イランの仲介に意欲を示し、19年9月の国連総会の際に、トランプ大統領とイランのハッサン・ロウハニ大統領が電話で会談できるよう場を設けたりしました。
この電話会談はけっきょく、ロウハニ大統領がドタキャンして、実現せずに終わりました。イランとしては、関係国が対話を望むレベルに降りてきたのを見て、抵抗・圧力を加えることが有効と味をしめたのでしょう。私は、イランが一段と抵抗を強めてくるな、と評価していました。
加えて、19年10~12月にレバノンやイラクで反イランのデモが起きたことも、イランが抵抗の度を強めるのを後押ししました。イランは、こうしたデモを米国が仕掛けたと思っています。よって、“この米国の動き”を転換させるためには抵抗を強める必要があると考えた。
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