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 年代によるかもしれないが、読者の中にも幼い頃、お風呂上がりにベビーパウダーを母親に振りかけてもらっていたという人が多いのではないだろうか。筆者もその一人だ。あの、少し甘くて清潔感のある香りは、今でも「母親の優しさ」の記憶として残っている。

 このベビーパウダーを1894年から販売しているジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)が2019年10月18日、米国で生産・出荷した同製品約3万3000本の自主回収に踏み切った。米食品医薬品局(FDA)が実施した調査で微量の発がん性物質が検出されたからだ。その物質とは、アスベストである。

J&Jのベビーパウダーの「初々しい香り」は女性に人気。赤ちゃんだけでなく自身にも衛生目的で使用する女性が多い(写真:Justin Sullivan / Getty Images)

 日本ではそれほど大きく報道されてこなかったのでご存じない方も多いかもしれない。米国では数年前から、J&Jのベビーパウダーの中に含まれているアスベストの影響で、がんを発症したとする人たちが同社を相手取り訴訟を起こしている。その数は1万件以上に上る。

 18年7月には、ベビーパウダーを使用したことで卵巣がんを発病したとして22人の女性がミズーリ州で起こした訴訟で、裁判所が同社に約47億ドル(約5100億円)の損害賠償の支払いを命じた。ほかにも同社はニュージャージー州やカリフォルニア州などで、卵巣がんや中皮腫などの原因を生み出したとして訴えられているが、上記を含むすべての敗訴した裁判において同社は「製品とがんの発病には一切の関連性がない」と主張し、上訴している。

 だが、さすがに米規制当局からの指摘には従わざるを得なかったのだろう。今回の回収が同社の今後に及ぼす影響は計り知れない。というのも、同社がアスベストを含む可能性について実質的な対応をしたのは、今回が初めてだからだ。

転機を迎えた長年の「論争」

 今回の回収に先立ち、ニューヨーク・タイムズやロイター通信といったメディアが本件を大きく扱っていた。特にインパクトが大きかったのが、ニューヨーク・タイムズが制作して19年10月4日にテレビやウェブで放送したドキュメンタリー番組「ザ・ウィークリー」だった。

 番組は、カリフォルニア州に住む元教師のパトリシア・シュミッツさんが起こした訴訟を軸に構成されている。シュミッツさんは若くして中皮腫を発症。建設業などアスベストに触れる機会の多い職業ではなかったことから、唯一、原因として考えられたベビーパウダーを疑うようになった。2人の子どもや自身の体に、ベビーパウダーを使用していたからだ。

 番組では訴訟に関わった弁護士や研究者などが取り上げられていたが、中でも注目すべきだと感じたのが、現在はイスラエルに住む、ある男性の話だった。彼は70年代前半にニューヨーク大学の教授の下で働いていた。その教授は当時、J&Jが資金を提供する調査を任されていた。ベビーパウダーの原料であるタルク(滑石)の中にアスベストが含まれているかどうかの調査だ。

 その男性はこう振り返った。

 「ベビーパウダーのタルクの中にはランダム(無作為)にアスベストが含まれていた。これが何を意味するかというと、採掘したタルクはすべて使い物にならないということ。どの層にアスベストが含まれていて、どの層には含まれていないかの区別がつかないからだ」