(前回から読む)
それにしても栄一はなぜ、定食店で成功したのだろうか。理由の一つは「家」にあると私は考えている。
三森家は前述のように、江戸時代の旅籠から明治時代は穀物卸、戦後は観光ぶどう園へと、時代の変化に合わせて商売を移してきた。分家筋を見渡しても、鉄工所を経営したりと商売人がやたらと多い。そのため親戚が集まると、決まって商売の話になる。そうして互いが持っている情報を交換し合い、商売に生かすのだ。
生前の父もそうだった。
山梨に戻ると、必ずといっていいほど親戚に電話をかけた。
親戚には大戸屋のフランチャイジーをしている人などもいて、そうした人たちと、「こうすれば、絶対にお客様が喜んでくださる」「どうすればもっとご飯がおいしく炊けるだろう」などと相談していた。酒は入っても馬鹿話は一切なく、仕事の話ばかり。「人様のお役に立つことをしないといけない」という話も、親戚とよくしていた。
三森家が特別なのではなく、商売人が多い家はどこも、このようなものではないか。栄一も、家族や親戚が交わす商売の話を子守歌代わりに聞かされながら、育ったはずだ。
実子を亡くしたことで自暴自棄になった時期はあったが、そこから転じて商売に没頭し、成功できたのは、商売のあり方を三森家で刷り込まれていたからだと思う。
養父の急死
その栄一が倒れた。父が洋食店に就職して半年後のことだ。
栄一は大の酒好きだった。食堂で深夜まで働きづめの日々を送りながら、毎日のように酒を飲んだ。不摂生がたたったのだろう、肝硬変を患い、入退院を繰り返すようになり、父が就職した頃には無理が利かなくなっていた。
養母のマコトは、父に「お店を手伝ってくれないか」と頼んだ。
こうして父は洋食店にいったん休職願を出し、大戸屋食堂に入る。
食堂に立ちながら、栄一の快復を待っていたが、願いむなしく1979年1月、栄一は肝硬変で永眠した。享年57歳。
それから36年後に、父は栄一と同じ57歳で亡くなる。これは単なる偶然だろうか。それとも、人智を超えた何かが働いているのか。
前述したように、父は私に「どうしてここまで大戸屋を発展させられたのかというと、おじいちゃん(栄一)が俺の中に入ってきてくれたからだ」と話した。
そんなことは現実にはあり得ないと思われるかもしれないが、同じ57歳という年齢で他界したことなどを考えると、もしかしたら栄一と父が本当に一心同体となって、大戸屋の経営を続けていたのかもしれない。
栄一が亡くなると、ショックを受けた養母までもが体を壊す。
当時、父は21歳。飲食店経営の右も左も分からなかったが、尊敬していた養父が育てた大戸屋食堂である。家業を継ぐことを決めた。
実は栄一は、いまわの際で遺言を残していた。
「俺が死んだら、しばらくは、方策に店の経営をしてもらえ」
方策とは、栄一の弟、つまり父の実父である。
方策は、山梨で観光ぶどう園を経営している。飲食店経営の経験はないが、21歳の父が切り盛りするよりはいいと思ったのだろう。
栄一はこうも言ったという。
「やりたくなかったら、大戸屋はもういいぞ。自分の好きな道に行け」
しかし、こうした遺言の内容を、父は身内にも話さず、自ら食堂の店主となった。
21歳の父は、そのとき何を考えていたのだろうか。
それは、二つある。一つは、養父に対する感謝。そしてもう一つは、養父に対する世間の見方を覆すことだった。
父は、幼い頃から可愛がってくれた養父のことを、実の父のように愛していた。人気の食堂をつくり上げた経営者として尊敬もしていた。しかし、養父が望んだ野球選手の道を断念したため、養父に何もしてあげられなかったという思いが強かった。
だから、養父が残してくれた大戸屋食堂を継ぎ、大事に守っていきたいと考えた。大戸屋食堂を発展させることで、養父に対する感謝の念を示そうとした。
しかし、周囲の人は養父のことを、必ずしも肯定的には見ていなかった。
「汚い定食店のおやじ」という汚名をすすぐ
高校時代は家の中での養父しか知らなかったが、養父が倒れて食堂を切り盛りするようになると、地元の商店主や取引先などから、いろいろなことを言われたという。それは、養父が「汚い定食店のおやじ」くらいにしか見られていないという事実だった。自分が尊敬する養父と、周囲の目のギャップは、父に大きなショックを与えた。
確かに、大戸屋食堂は時代遅れの食堂だった。
料理の質、サービスの質、清潔度のどれを取ってみても、池袋界隈では最も低かったという。安さだけが取りえで、来店客の大半は学生と日雇い労働者。
ネクタイを締めたサラリーマンや女性客は、まず来なかった。たまに間違って女性客が入ってくることもあったが、お客も従業員も不思議なものを見るようにその女性に視線を向けるので、逃げるように帰ったそうだ。
それでも、大戸屋食堂には毎日、お客様がたくさん来店する。50円均一という独自の経営で、男性客から大きな支持を集めているではないか。なぜ、そこまで世間の目は冷たいのか。父はそのことが「非常に嫌だった」とよく話していた。
養父の汚名をすすぐためにはどうすればいいだろう。方法は一つ。養父が残してくれた、この大戸屋食堂をもっと磨き上げ、繁栄させるしかない。そうすれば、「素晴らしい店だ」と周囲の評価が変わるはずだ。
父の経営者人生は、そんな反骨心からスタートした。
養父の借金は皆無だった。貯金が数千万円もあり、資金面での不安はなかったという。父を悩ませたのは、人材面だった。
当時の従業員は約20人。21歳の若造が、自分より一回りも二回りも年上の従業員をまとめること自体が難しいが、加えて、当時の大戸屋食堂で働いていたのは、普通の会社ではなかなか雇ってくれないような人が多かった。ほとんどが、何かしらの事情で住所のない流れ者。住む場所がない従業員のために、栄一は社宅まで用意していた。
父は後年、雑誌のインタビューでこう語っている。
「当時は、スポーツ新聞に求人広告を出して住み込みの職人さんを雇い、これらの人はくわえタバコのまま、平気でお客さんに料理を出すわ、土日になると、競馬新聞と赤鉛筆を持って、お客さんそっちのけで予想に熱中しているという時代でしたからね」
荒っぽい性格の従業員が多く、仕事上のささいな衝突から、従業員同士のけんかが絶えなかった。店のお金を盗んで逃亡した従業員がいたので警察に調べてもらったら、偽名を使った指名手配犯だったこともある。
人材面で大変な最中にあっても、父はある目標を抱いていた。
それは、食堂の多店化である。
「食堂の多店化なんて聞いたことがない」
1970年代は、外食産業がにわかに脚光を浴びた時代だ。米国のチェーンストア理論を輸入し、すかいらーくのようなファミリーレストランや、日本マクドナルドのようなファストフード店が勃興、出店を加速していた。
きらびやかな外食チェーンに比べれば、見てくれは劣るかもしれないが、集客力では大戸屋食堂も負けてはいない。きっと、大衆食堂も多店化できる。店舗展開すれば大戸屋食堂に対する評価も変わるのではないか。父はそう考えた。
手探りで事業計画を立て、父は銀行に駆け込んだ。
「食堂を多店化したいのです。融資をお願いできませんか」
しかし、応対した銀行の担当者の態度は冷たかった。
「大戸屋食堂? 食堂の多店化なんて聞いたことがない。君ねえ、すかいらーくやマクドナルドと一緒にしちゃあいかんよ。食堂に多店化なんてできるわけがないだろう。融資審査が下りることは絶対にない。多店化したいなら、自分で資金をためて、自己資本でやってください」
飲食業が「外食産業」に転換しつつあった時代とはいえ、食堂の多店化はハードルが高かった。もしかしたらその銀行担当者は、池袋の大戸屋食堂がどういう内外装で、どんな従業員が働いているかというのも、知っていたのではないか。
私も2年間とはいえ、銀行勤めをした人間だ。仮に、私がその頃、銀行担当者として父と対面したら、どんな対応をしただろう。父には申し訳ないが、どれだけ立派な事業計画書を持ってきても、首を縦には振らなかったかもしれない。
銀行から、けんもほろろに追い返された父は、以来、朝から晩まで店に立ち続けた。
何としてでも、多店化してみせる。そんな志を掲げて無我夢中で、仕事に向かった。そうして3年間で8000万円の資金をためた。
海苔の佃煮のボトルキープ
なぜ、父は経営がうまくできたのだろう。
後年の父の証言を要約すると、「お客様にいかに喜んでもらうかを常に考えていたからだ」という。お客様のことを一生懸命に考えることで、いろいろなアイデアがひらめき、それを実践したから、大戸屋食堂をさらに繁盛させられたというのだ。
アイデアとはどんなことかと言えば、例えば海苔の佃煮のボトルキープ。瓶詰めされた市販の海苔の佃煮をお客様ごとに保管するサービスだ。言うまでもなく、ウイスキーのボトルキープからヒントを得たもので、小さなボトルカードに名前を書いてもらい、瓶に掛けていた。店の棚には、100個以上の海苔の佃煮がずらりと並んでいたという。
これは来店客に大好評だった。海苔の佃煮を割安な価格で食べられる。お金がない日は佃煮をおかず代わりにして、ご飯を食べる学生もいたそうである。
奇想天外な佃煮のボトルキープの話は、新聞にも取り上げられた。ただ、最大3カ月間保管するため、夏場にはカビが生えることもあったそうで、しばらくしてやめた。
逆に喜ばれなかったサービスもあった。
ステーキを出して、フォークとナイフで食べてもらったりしたことがある。もちろん、ステーキは50円では売っていない。今から思えばよくそんな試みをしたものだと思うが、父は店のイメージを変え、ネクタイを締めたサラリーマンや女性にも客層を広げたいと思ったらしい。ただ、ステーキは全く売れなかった。
蝶ネクタイ付きのスタイリッシュなユニホームも導入した。食堂で蝶ネクタイである。それまでは皆、サンダル履きだったというから、相当な変わりようだ。一夜にして変貌した従業員の姿に、さぞお客様は目を丸くしたことだろう。
器も安っぽいものを使っていたが、食器や調理道具の店が並ぶ東京・合羽橋の問屋街に足しげく通い、おしゃれで立派な器を買いそろえた。当時、池袋ではやっていたレストランに通い、器や盛り付けのヒントを見つけたりもした。
父は本当に試行錯誤を繰り返した。失敗も多かったが、いろいろなことに挑戦した。失敗しても、少しもめげなかったという。
客数は1日2000人へと倍増
父は生前、私にこんなことを言っていた。
「智仁、よく聞けよ。失敗を失敗のまま終えれば、失敗でしかない。なぜ失敗したのか、と考えることが新たな発見、発展を生むんだ。最悪なのは、失敗を恐れるあまり、行動に移さないことだぞ」
既に書いたように三森家は商売人が多い。父は幼少期から「商売の鉄則は、人様のお役に立つこと」という話を事あるごとに聞かされていた。これが大きかった。
もっともっとお客様に喜んでもらいたい。その一心で突っ走った若い経営者の気持ちはお客様に通じた。養父から引き継いだときには1日1000人だった客数は、2000人へと倍増。当時の客単価は400円程度だが、安くてもこれだけのお客様に来てもらえれば、3年間で8000万円の貯金ができたという話もうなずける。
父は多店化の夢を、従業員や取引先に語っていた。銀行の担当者同様、「食堂が店舗展開なんてあり得ない」と多くは笑ったが、中には「なかなか面白いことを考えているやつがいる」という人も現れ、少しずつ、いい人材が入るようになった。一方で、勤務態度に問題があった従業員は居心地が悪くなり、自然に辞めていったという。
1983年5月20日。東京都豊島区東池袋に、株式会社大戸屋を設立した。26歳の父は代表取締役社長として、企業経営者の道をスタートさせた。
翌1984年には、蓄えた資金を元手に、山手線で池袋から2駅の高田馬場に念願の2号店を出店する。当時、店舗の食材は毎朝、築地市場などから父が買いつけていたため、1号店に近いという条件は大切だった。
さらに2年後の1986年には、東京・吉祥寺に3号店を出店した。
大皿料理店ブームに乗って失敗
父は雑誌のインタビューでこう振り返る。
「金でいえば、20代の頃は全く困らなかったですね。何しろ既存店が繁盛しているのだから、今(注/1999年)より、よほど自由に金を使えました。飲みに行っても、景気よく金を使うものだから、もてるんです(笑)。それで東京・阿佐ケ谷に格好をつけた大皿料理の居酒屋などを出したり、別の事業を始めたりして失敗しました。『大戸屋』で稼いでも、みんなそちらに金が出て行ってしまう」
(注)は筆者注。以下同じ
時は、バブル経済に突入した1980年代後半。当時、大皿料理店がブームになっており、父はそれに乗ろうとした。
阿佐ケ谷駅に隣接するビルに出した居酒屋は、内装に凝って、店内にはジャズをBGMで流した。50円均一の定食店とは、まるで違う店づくりである。
しかし、定食店と居酒屋は、アルコール比率と滞在時間が決定的に違う。どのような収益構造で稼ぐのかという設計も曖昧なまま出した店は、全く儲からなかった。結局、この大皿料理店は1年で撤退。5000万円をどぶに捨てた。
また、「モスバーガー」のフランチャイズチェーンにも加盟した。郷里の山梨に3店を出店したが、あまり利益は出なかったという。ただ、モスフードサービスの創業者、櫻田慧氏らとの出会いは、後の大戸屋の発展にも関係してくる。
「いつの間にか、自分の力で大戸屋食堂を伸ばしたと勘違いしていた。養父がつくった事業モデルのおかげで、2店目、3店目と出店できただけ。
それに、今までご飯屋しかやっていなかったのに、居酒屋などに手を出してしまった。同じ飲食店でもそんなに甘くない。お金ができると、そういう甘さがすぐに出てくるのが人間というものかもしれないが……」
バブルに浮かれていた世の中にあって、父も方向性が定まらなかった。
養父が残してくれた食堂を発展させてみせる。大戸屋食堂を成功させることで、養父の汚名をすすぐ――。そんな初心はこの時期、置き去りにされていた。社長業に専念したといえば聞こえはいいが、調理場にもほとんど立たなくなった。
そこから父は、どのように道を修正したのか。三森久実という経営者を時間軸で捉えるとき、ここで180度の大転換ができたことが大きかった。
きっかけは防災の日に起きた、店舗の全焼事故だった。
三森智仁(みつもり・ともひと)
1989年生まれ。2011年、中央大学法学部卒業後、三菱UFJ信託銀行に入社。13年大戸屋ホールディングス入社。14年ビーンズ戸田公園店店主。執行役員社長付を経て、15年6月に常務取締役海外事業本部長。16年2月退任。
(この項終わり。この記事は『創業家に生まれて』の第1章の一部を再構成したものです)
日経BP社では、三森智仁氏の著書『創業家に生まれて~定食・大戸屋をつくった男とその家族』を発行しました。「絶対不可能」と言われた食堂の多店化は、なぜ成功したのか。世間を騒がせた会社側と創業家の対立の背景には何があるのか。外食業界に大きな足跡を残したカリスマの一代記を、家族しか知らない秘話とともに詳述しています。
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