高校時代の父は、休みもほとんどなく、毎日練習に明け暮れた。山梨の田舎町から東京に出てきた父は、野球部でひどいいじめに遭ったと聞いたこともあるが、実際はよく分からない。とにかく、甲子園出場を目指して頑張った。野球をしているときは、郷里山梨のこと、実母のことを忘れることもできただろう。

 だが、甲子園出場はかなわなかった。帝京高校は、父の代が卒業して3年後に甲子園出場を果たしている。父はプロ球団・ノンプロ球団のスカウトから注目を集めるなど、個人としてはいいところまで行ったようだが、結局プロから声はかからなかった。

 卒業が迫り、父は進路を選ばなくてはならなかった。

 養父の栄一からは大学進学を強く勧められたようだ。大学に進んで野球を続けていれば、プロの道が残される。たとえプロに行けなくても、父の将来のためには、大学を出たほうが何かといいと思ったのだろう。

 だが父は、甲子園出場の夢がかなわなかった時点で、野球については燃え尽きていた。野球部に入らないのなら、大学に進んでも遊び癖がついてしまうだけだと思い、就職することを決める。高校時代の愛用のグラブは、このとき捨てたという。切り替えの早さは、生来のようだ。この性格は後に経営者になったときも生きてくる。

 大戸屋食堂で働くという選択肢はなかった。それは養父の栄一が、父に食堂を継がせる気がさらさらなかったからだ。

 当時、大戸屋食堂は、池袋界隈では知らない人はいないほど、大繁盛していた。そのオープンは、父が生まれた2カ月後だから、父の高校卒業時には18年がたっていた。造作は古いが、「全品50円均一」というユニークな商売を打ち出し、「50円食堂」として親しまれていた。連日1000人を超えるお客でにぎわったという。

 大型店ならまだしも、大戸屋食堂は1階と2階合わせて、48坪。一品当たりの単価を大胆に下げ、しかもそれを均一価格で提供する。その割安感と安心感で、客席回転率を高めるというアイデアは、斬新だった。

 店はてんやわんやだったから、大学で野球を続けないなら父に手伝ってもらい、その後は後継者に、という選択肢があってもおかしくないが、栄一にはそのつもりはなかった。ここからはあくまで想像だが、それは本当の子供ではなかったからだろう。

 栄一は大衆食堂という商売が水に合っていたようだが、従業員は流れ者のような人ばかりで、ギャンブル帰りのお客も多かった。

 栄一はどちらかというと気性が荒く、池袋界隈を仕切っていたやくざ者からも一目置かれる存在だったという。だからこそ、兄夫婦のところから来た子に継がせる商売ではないと思ったのではないか。

 野球一本の人生を歩んできた当時の父に、夢は特別なかった。父のことを案じた養父は、知人を介して、帝国ホテルで料理長をしていた村上信夫シェフに連絡を取る。

 村上シェフは1964年の東京オリンピックで選手村の食事を取り仕切り、その後は帝国ホテルで長く料理長を務めた、言わずと知れたフレンチの巨匠である。おそらく当時の日本で一番だった1日1000人を集客する50円食堂のオーナーが、日本を代表する高級フレンチの料理人に頼ったというのも面白い。

 ともあれ、村上シェフの口利きで、1976年、父は新宿の洋食レストランで働くようになった。養父の栄一は、いずれ父をフレンチのシェフにしたいと思っていたそうだ。数年間日本で修業し、フランスに留学して経験を積み、帰国後にフランス料理店を開くというのが、栄一と父のプランだったという。

 しかし、父の人生計画はすぐに方向転換を迫られる。栄一が急死したのだ。

三森智仁(みつもり・ともひと)
1989年生まれ。2011年、中央大学法学部卒業後、三菱UFJ信託銀行に入社。13年大戸屋ホールディングス入社。14年ビーンズ戸田公園店店主。執行役員社長付を経て、15年6月に常務取締役海外事業本部長。16年2月退任。
(次回に続く。この記事は『創業家に生まれて』の第1章の一部を再構成したものです)
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