母親からの愛情を全身で受け止めながら、わずか9歳の幸之助は列車で大阪に向かったのである。この運命が「経営の神様」の土壌をつくった。

 父は自身の生い立ちを、幸之助と重ね合わせていたと思う。

 父は中学校の卒業式を終えると、家を出た。15年前に生を受けたときから決まっていたこととはいえ、実母は号泣した。父が家を出た後も、部屋の隅でしばらく肩を震わせて泣く姿を、長兄の智文をはじめ、家族の皆は今も鮮明に覚えている。

 別れの日のことを、父は私に語ったことはない。

 私は幼い頃、祖母が3人いることが不思議だった。まず、母方の祖母。そして父の実母である、山梨の喜美子。さらに池袋には父の養母、マコトがいた。

 友達は皆、祖母が2人なのに、自分にはなぜ3人もいるのか。成長し、その訳を理解してからも、私はそのことについて、父にはあえて尋ねなかった。15歳で養子に出た父の悲しみに、子供の私のほうからは触れてはいけないと思ってきた。

 15歳とは、どのような年頃なのだろう。

 自分の15歳当時を振り返ってみると、友人には反抗期を迎え、異性である母親を避ける人が多かったかもしれない。15歳は精神的にも肉体的にも大人として脱皮する年齢であり、父が15歳で家を出たということを、ことさら掘り下げる必要はないのかもしれない。しかし、父の場合は単純に割り切れない心理状態にあったと思う。

 子供時代の父は、兄貴肌でリーダーシップもあったそうだ。実母にべったりという子供ではなかったが、おそらく実母と等しく深い悲しみ、不安、寂しさを抱えていた。兄二人は自分が家を出てからも、これまでと変わりない生活をするのだ。なぜ、自分だけがこんな境遇に……。そうした感情を持つなというほうが難しい。

 何よりも、父自身が言うように、実母からあふれるような愛情を注いでもらっていた。実母は兄弟を平等に愛そうとしただろうが、15歳までしか一緒に暮らせないと分かっている末っ子に、目をかけないはずがない。

 だからこそ父は、別れの日、分別ある15歳の少年として自らの定めに淡々と従いながらも、一方で、実母に対する強烈な慕情を心に深く刻んだのだ。

 栄一・マコト夫妻は、父のことを本当にかわいがったという。それゆえ父は池袋の家で、実母に対する寂しさを口にすると、養父母に申し訳ないという気持ちもあっただろう。自らの悲しみを吐き出すことすらできず、胸に秘めるしかなかったのである。

 実父母と養父母から、4人分の愛情を受けた父。複雑な境遇ゆえの、実母に対する秘めたる愛情。これが後の経営者人生の輪郭をつくった。

帝京高校野球部

 東京に居を移した父は、帝京高校に入学した。
 甲子園の大会に出るためである。

 当時の帝京高校は今ほど野球の強豪校ではなかったが、帝京大学野球部OBの前田三夫氏を監督に招き、3年で甲子園出場を目指すというプランが動いていた。野球好きの栄一と前田氏に面識があり、その縁で帝京高校進学を決めたらしい。