養子縁組

 栄一にとっては、オーナーとして慌ただしく店を切り盛りしながらも、久しぶりに味わう平穏な日々だっただろう。

 ただ、栄一・マコト夫妻は子宝に恵まれなかった。大戸屋食堂を構えたとき、栄一は既に40歳近くなっていた。マコトも同じである。

 栄一は山梨を離れたといっても、三森家の長男である。家を継ぐ者が要る。そこで智次が目をつけたのが、栄一の弟、方策の子供だった。栄一が自分の店を持つことが決まった頃、智次は家族を集め、こう言った。

 「方策のもとに生まれた末っ子の男は、栄一のところに養子に出す」

 長男智文、次男教雄に続いて、3人目の男の子が生まれようとしていた。

 1957年11月18日、私の父、三森久実は誕生と同時に、15歳で養子に出る運命が定まっていた。父の実母、喜美子の心情を察すると切なくなる。

 父の長兄、智文は、将来の家長として大切に育てられ、後に実家の観光ぶどう園を継いだ。次兄の教雄は、地元でも評判になるほど幼少のときから成績優秀で、早くから医師の道を志し、それを見事に実現する。

 三男坊の父は、年子の教雄とは対照的に、勉強はあまりしなかったという。しかし、教雄とは違う分野で、地元ではちょっとした有名人だった。野球がうまかったのだ。小学校、中学校を通して、4番でエース。早くからプロ野球選手になることを夢見ていた。

 野球に明け暮れる父を、目を細めて見ていたのが、栄一である。栄一は高校野球の審判員の資格を持っていたほどの野球好き。将来、自分の養子になる子が、三度の飯より野球が好きだというのも何かの縁だと思ったはずだ。

 父が幼い頃から、栄一・マコト夫妻は足繁く山梨に通い、その折にはたくさんの土産を父に持ってきた。父を自分たちになつかせるためでもあったのだろう。智文と教雄もよく土産をもらったというが、やはり父に対する栄一の接し方は特別だった。あるときには、野球のバットが1ダース(12本)も送られてきたことがあったという。

 父は夏休みや春休みになると、東京に住む栄一の家で暮らした。
 父は後年、私の前でこんな思い出話をしている。

 「栄一おじさん、マコトおばさんには、たくさんの物をもらったし、いろんな意味で可愛がってもらったよ。俺は3人兄弟の中で、一番、頭の出来が悪かった。スポーツで身を立てようとしていたから、兄たちより頭が悪くてもいいやと思っていた。

 でも、栄一おじさんは『こいつが一番、頭がいいんだ』とよく言ってくれたんだ。おふくろ(実母)にも『末っ子のこいつが一番頭がいいと思う』と言うわけだ。

 俺もそう言われれば、悪い気はしない。普段からそう言われていればまだしも、教雄兄さんの出来が良かっただろ。親からは兄貴と同じ塾に行かされたけれど、兄貴とは違って成績は駄目だし、そもそも勉強する気がないから、塾の先生もまともに扱ってくれなかったんだ。非常に疎外されていた。

 だから、栄一おじさんに『頭がいい』と言ってもらえると、うれしくてね。本当に、いいおじさんだなと(笑)。もしかしたら、野球に使う時間を勉強に使えば、兄貴にも勝てるんじゃないかと思えてきてさ」