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 三鷹と聞いて、あれっ、と驚いた人がいるかもしれない。三鷹は、現在の大戸屋の本社がある場所だ。三鷹駅から徒歩2分ほどの距離に、本部が入るビルがある。豊島区、田無市、新宿区と転々とし、大戸屋が三鷹に本社を移したのは、2010年だった。

 武蔵野市を含む三鷹駅周辺はすかいらーくをはじめ、数社の外食チェーンが本社を構えている。都内では比較的平均的な所得層の人たちが住んでおり、ここで成功すれば、都内全域や全国に店舗を広げる試金石になると考えられているからだ。

 大戸屋にとっては、そうした地域性に加え、大戸屋がかつて手掛けていた植物工場、現在の研修センターがある山梨にアクセスがいい。しかしそれ以上に、父の望郷の念が山梨に近い三鷹という場所を選ばせたのではないかと私は思う。山梨を出た栄一、マコト夫妻が最初に降り立った駅だということも、父の頭の片隅にあったのかもしれない。

 栄一・マコト夫妻の話に戻そう。
 駆け落ち同然で、親戚にも黙って山梨を離れた二人は三鷹に住まいを構えた。しかし、焼き鳥店を開くめどをつけたところで、栄一の父、智次に居場所を突き止められる。

 二人はまた逃げた。山梨を背に、中央線で都心方面に向かい、新宿駅で山手線の外回り電車に乗り、降り立ったのが池袋駅だった。

 池袋で、マコトが焼き鳥店を出したかどうかは定かではない。多くの飲食店が密集する池袋で、上京したての女性が焼き鳥店を開き、成功させられるほど甘くはなかっただろう。おそらくは生活するために、栄一は職を探した。

 そこで見つけたのが、池袋にあった大衆食堂。駅の西口で「元禄食堂」、東口に「丸善食堂」という店名で、1人のオーナーが経営していた。

 栄一は、この食堂で身を粉にして働いた。

 智次は、栄一・マコト夫妻が池袋に居を移したという情報はつかんでいたが、一生懸命に働く栄一を見て、山梨に連れ戻すことは諦めた。

 栄一は、「中島栄一」と偽名を使っていた。覚悟を決め、東京で新しい生活を始めた栄一を、陰ながら応援してやろうと決めたのだ。

 栄一には商才があった。東口の丸善食堂を任された栄一は、みるみる店を繁盛させる。

 食堂のオーナーは高齢だったこともあり、栄一に東口店を譲渡することを提案。しかし栄一には大した貯金もなかったため、思案に暮れていた。

1958年に開店した大戸屋食堂
1958年に開店した大戸屋食堂

 すると、どこでそうした情報を耳にしたのか、智次は栄一の元を訪ね、今のお金にして4000万円ほどを手渡した。

 こうして池袋駅東口に栄一は自分の店を持った。屋号も新しく「大戸屋食堂」と付けた。1958年1月のことである。

 先ほど述べたように、大戸屋は三森家が江戸時代に営業していた旅籠の名前である。智次が大戸屋という屋号の使用を許したことからも、それまで悪化していた親子の関係が完全に氷解したことが分かる。栄一は偽名を捨て、三森の姓を再び名乗った。

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