もっとも、子供には口やかましく言わず、本人に考えさせるという教育方針は、昔から変わらない。自分で苦労しながら右へ左へとよろめき、壁に何度も頭をぶつけるほうが、人は成長すると考えていたのだろう。

 病気になってから二人で何度か国内外の大戸屋の店を回ったが、そのとき「店のどういうところを見ればいいかな」と聞いても教えてくれない。「おまえが感じるまま。それが正しいんだ」。それ以上は何も言わなかった。

 でも、私にとっては一緒にいるだけでよかった。

 日々体力が奪われていく中でも、事業への情熱を全く失うことがない父。その姿から学ぶことは多かった。父もそうしたことを意識していたのか、毎日のように私に電話をかけて「今から来れないか」と呼び出した。

 病院を抜け出し、近くにある串焼き店に二人でよく出かけた。病院の夕食時間が終わり、消灯までの時間が多かった。

 「おい、行くか」
 「いいよ」

 医師や看護師の目を盗んで病院から出て、串焼き店に駆け込むと、互いの顔を見て「うまくいったな」と笑った。余命いくばくもない患者のことだから、おそらく医師も看護師も、気づかないふりをしていてくれたのではないかと思う。

 カウンター席で酒を酌み交わし、焼き鳥をつまんだ。
 男二人でたわいもないことをたくさん話した。本音では、父はもっと大切なことを私に語りたかっただろう。私も父に聞きたいことは山ほどあった。

 けれど、末期がんに侵されながらも生きることに前向きな父を前に、私はいくつかの言葉を喉元で抑えた。

 ただ、父がある晩、その店で唐突にこう言ったことはよく覚えている。

 「栄一おじさんが亡くなってから、どうしてここまで大戸屋を発展させられたのかというと、おじさんが俺の中に入ってきてくれたからだよ。だから、俺の身に何かあっても、心配するな。俺の全部が、おまえの中に入るから」

 うれしかった。涙がこぼれないように、大きく深呼吸した。
 父は5年、10年と生きようとしたが、相続の準備だけは進めた。

 父が持っている大戸屋の株式をどのように私たち家族に継承するか。上場企業である大戸屋の資本政策に関わる重要なことなので、父はメインバンクと相談しながら、慎重にスキームをつくり始めた。

最後の出張

 余命宣告の1カ月を超え、3カ月、半年と父は生きた。幸いにも、抗がん剤がうまく効いてくれたからだ。

 もしかしたら父が言うように、本当にずっと生きてくれるのではないか。がん細胞に打ち勝つのではないか。私たち家族もそう期待した時期があった。

 しかし、それはかなわなかった。

(次回に続く)

(この記事は『創業家に生まれて』の第1章の一部を再構成したものです)

三森智仁(みつもり・ともひと)
1989年生まれ。2011年、中央大学法学部卒業後、三菱UFJ信託銀行に入社。13年大戸屋ホールディングス入社。14年ビーンズ戸田公園店店主。執行役員社長付を経て、15年6月に常務取締役海外事業本部長。16年2月退任。
日経BP社では、三森智仁氏の著書『創業家に生まれて~定食・大戸屋をつくった男とその家族』を発行しました。「絶対不可能」と言われた食堂の多店化は、なぜ成功したのか。世間を騒がせた会社側と創業家の対立の背景には何があるのか。外食業界に大きな足跡を残したカリスマの一代記を、家族しか知らない秘話とともに詳述しています。