ネクタイをきちんと締め、スリッパから革靴に履き替えていた。かばんを枕元に置き、ベッドの上に背筋をピンと伸ばして座り、大きな目をギラギラさせて、朝一番の検診を待っているのだ。

 部屋を訪れた看護師は、もちろん驚く。

 「三森さん! 何をしているんですか!」
 「仕事に行くんです」
 「治療中だから、外には出られないんですよ」
 「看護師さんには分からないのです。私は仕事に行かなくちゃならないのです」

 こんなやり取りが繰り返された。入院中はほぼ毎朝である。

 ワイシャツに腕を通すときに、抗がん剤を入れる点滴の針を自分で抜いてしまうので、ワイシャツの袖はいつも血だらけだった。べっとりと血のついたワイシャツを、母は何枚、洗濯したか。

 母が「看護師さんを困らせないでください。スーツは家に持ち帰りますよ」となだめると、父は烈火のごとく怒った。

 「馬鹿野郎! パジャマじゃ仕事に出かけられないだろ!」

 仕方なく病室のロッカーにはスーツと革靴、かばんを常備していた。

 死の少し前にはがんが脳に転移したため、意識障害が始まっていたが、スーツに着替えていたのは、入院初期の、まだ思考もしっかりしていた頃からだ。

 それはもう、執念としか言いようがない。鬼気迫る姿には、恐ろしささえ感じた。

 父は、自分が死ぬとは思っていなかった。どこまでも生き続け、仕事をするつもりだった。だから母にも私にも、遺言らしい遺言はなかった。

 事実、その強い意志によって、父は1年も生きたのである。
 余命1カ月の宣告を軽々と越え、1年もだ。

 兄の教雄が病室に来たとき、父はこう言っていた。
 「兄貴、1年持ったんだから、5年は大丈夫だよな」
 「そうだな、大丈夫かもな」
 「5年持てば、10年だって大丈夫だ。この病院が始まって以来の記録を作っちゃうよな。兄貴も鼻が高いだろ」

父と二人きりの時間

 病の発覚から、死まで1年。1年もあれば、父とたくさんのことを話しただろうと想像されるかもしれない。

 確かに、それまでの父は仕事に明け暮れていたので、最後の1年間は父と一緒にいる時間が人生の中で一番長く、今振り返っても濃密だった。

 しかし、父は生きる望みを全く捨てていなかったため、父はもちろん、私のほうも経営者のありようなどを話題にすることはあえて避けた。仕事について「ああしなさい、こうしなさい」と細かく教えを受けることもなかった。