2014年7月。
定食店のランチタイムは忙しい。客足が一段落すると、私はいつものように休憩室の椅子に腰掛け、ひと息ついた。
そのとき、手元のスマートフォンが鳴った。母(三森三枝子)からだった。
当時、私は大戸屋ホールディングスに入社して2年目。埼玉県戸田市にある店で、店主をしていた。大戸屋では、「自分の店」という意識を持って主体的に働いてもらうため、店長のことを「店主」と呼ぶ。
「お父さん、体調が思わしくないって言っていたでしょ。今日、病院に行って検査を受けているらしいの。あなたから電話して、様子を聞いてくれないかしら」
母は不安そうだった。
父の三森久実が、出張先のニューヨークから予定を繰り上げて帰国したのは、その1週間前。父は弱音を吐かない人なので、予定を繰り上げるというのは、よほどのことだろうと私も心配していたが、深刻には考えていなかった。
父はほとんど休みも取らず、仕事づめの日々を送っていた。年齢も50代後半になり、そろそろ体にガタが来ているのかもしれない。スマホを手に、そんなことをぼんやり考えていると、ちょうど父から電話がかかってきた。
「まだ検査結果は出ていないけれど、おそらく肺がんだな。智仁、本部に戻ってきてくれ。いろいろ頼みたいことがある」
毅然とした声に、覚悟のようなものが感じられた。
検査結果はまだなんだろ。父さんの思い過ごしだよ――。そう言うつもりだったのに、声の強さに押されて、うまく言葉が出てこない。
父との短い会話を終えると、しばらく何も考えられなかった。
ふと我に返り、母に電話をかけようとしたが、思いとどまった。さっきの言葉は父の推測にすぎない。あくまで、父は最悪の事態を想定しただけ。そんな話は母にしないほうがいい……。自分を納得させるように、何度も心でつぶやいた。私はゆっくりと腰を上げて、休憩室を出た。体中に鉛を縛りつけられたような重苦しさを感じながら。
余命1カ月の宣告
それから数日後。
検査結果を聞くため、東京都港区にある東京慈恵会医科大学附属病院に向かった。
こちらからは父と母と私、そして大戸屋の窪田社長の4人。窪田社長は大戸屋のトップであると同時に、父の母方のいとこでもある。また、父の兄の三森教雄(のりお)はその病院で消化管外科の医師をしており、おじも同席した。
主治医は、私たちの前で「余命1カ月」と告げた。
病名は小細胞肺がん。進行が速くて、父の場合、手術ができない状態だった。抗がん剤が効かなければ1カ月で命を落とすという。
そのとき、父はまだ56歳。そんな馬鹿なことがあっていいのか、と思った。
父は2012年に会長に退くと、窪田社長に国内事業を任せ、自身は海外に目を向けていた。和食を世界に広めるため、2005年のタイ出店を皮切りに、アジア市場を先頭に立って開拓。会長就任後は米国事業に心血を注いだ。
米国の大戸屋は1号店、2号店と軌道に乗り、「天婦羅まつ井」という新業態のオープンを控えていた。「さあ、この新店を成功させ、一気に米国各地での展開へ」というまさにそのとき、余命1カ月の宣告を受けたのである。
父は2014年に入ったあたりから、胸の奥からむせ返るような咳を続けていた。後から振り返ってみれば、風邪とは症状が違っていた。
私たちが、早くに精密検査を受けさせていればよかった。父も、仕事を優先して病院に行かなかった。当時はニューヨークでの開店準備に追われ、ひと月に4、5日しか、日本にいないという状況だった。
それにしても、余命1カ月という宣告は非情すぎる。
告知の瞬間、父は無言で病室の天井を見上げていた。傍らにたたずむ私たちも誰一人、言葉を発することができなかった。
本人は相当なショックを受けたはずだ。父に病名を隠すという選択もできたかもしれないが、父は前もって担当医に頼んでいたという。
「先生、私は上場企業の経営者という公的な立場の人間です。ですから、どんな病名であっても、包み隠すことなく、すべてをありのまま教えてください。そうでなければ、引き継ぎの準備などに支障を来しますから」
経営者というのは、酷な仕事だと思う。運命から顔をそむけることは許されず、敢然と向き合わなければならないのだ。
主治医が病状説明を終え、沈んだ表情で静かに病室を出ると、父が口を開いた。
「みんな心配するな。絶対に治る。医学は進歩しているんだ。それに、うちの兄貴(教雄)はスーパードクターだぜ。兄貴の病院に入院しているんだから、治るよ」
イッツ・オッケー
父の闘いが始まった。
1カ月はあまりに短い。普通なら、自暴自棄になってもおかしくないと思う。
しかし父は、身内の人間にも会社の人間にも、ネガティブな発言は一切しなかった。抗がん剤を投与され、いかにも苦しそうな表情を顔に浮かべているときでも、「体が痛い」とか「もう嫌だ」とか、そんな泣き言は一切口にしなかった。
見舞いに行った私が「体調はどうだい」と尋ねると、いつも返事は決まっていた。
「イッツ・オッケー!」
野太い声で、病室に響き渡るように言う。
その日の担当看護師さんが具合を尋ねても、同じ。
「イッツ・オッケー!」
看護師さんも大変である。
「……あの、三森さん、お体でどこか痛いところがあったら、『痛い』と正直に言ってくれないと、困るんですよ」
そう懇願されても、父は「イッツ・オッケー!」で、ほとんど通していた。
海外には頻繁に行っていた父だが、英語はからきし駄目だった。それなのに「イッツ・オッケー!」だから、私と母はいつも病室で笑っていた。
父はプラス思考のかたまりだった。
私が幼い頃、こんな話をしてくれた。
「いいか、智仁。言葉は言霊(ことだま)と言って、魂を持っているんだ。プラスの言葉を発すると、その通りになる。逆にマイナスの言葉を発すると、現実も悪くなる。だから、どんなに苦しいときでも、プラスの言葉を口にしなさい」
父は、政財界に多くの信奉者を持つ昭和の思想家、中村天風(てんぷう)に私淑していた。その教えは「絶対積極」という言葉に収れんされる。人生において、常に前向きな心を把は持じすることの重要性を唱えたものだ。
父が自宅の洗面所で、鏡に映る自分に向かって、よく叫んでいた姿を覚えている。
「俺は強い!」
「俺には必ずできる!」
父は男3人兄弟の末っ子だが、昔から兄貴肌だったという。
ただ、根っこの部分は繊細で、神経質な一面があった。本当は弱音を吐きたい。しかし、それでは経営者は務まらない。鏡に映る自分に向かって「俺は強い!」と叫ぶのは、弱い自分を克服するために、一種の自己暗示をかけていたのだ。
プラスの言葉を発していれば、必ず現実がその通りになる。それは父の信念のようなものであり、がんに侵されてからも貫いた。
血のついたワイシャツ
抗がん剤の治療がないときは外泊許可をもらい、病を押して出社した。
トップが深刻な病に侵されていることが社内に知れ渡ると、社員に動揺を与えてしまう。フランチャイズ加盟店や取引先にも、生きる望みがある限り、黙っておきたい。
父の病状は、窪田社長と専務、秘書、そして私の4人の極秘事項とした。幸いというか、がんが発覚する前の父は海外出張が多く、不在がちだった。父が会社に姿を見せなくても、違和感を持つ社員は皆無だったと思う。
父はできる限り、それまで通りに仕事を続けた。死の2カ月前まで、這いつくばるようにして海外出張にも出かけた。
いや、正確に言えば、入院中ですら会社に行こうとした。私たちが止めなければ、間違いなく出社していたはずだ。なぜそう断言できるかというと、入院中の父は朝早く起きると、スーツに着替えていたからだ。
ネクタイをきちんと締め、スリッパから革靴に履き替えていた。かばんを枕元に置き、ベッドの上に背筋をピンと伸ばして座り、大きな目をギラギラさせて、朝一番の検診を待っているのだ。
部屋を訪れた看護師は、もちろん驚く。
「三森さん! 何をしているんですか!」
「仕事に行くんです」
「治療中だから、外には出られないんですよ」
「看護師さんには分からないのです。私は仕事に行かなくちゃならないのです」
こんなやり取りが繰り返された。入院中はほぼ毎朝である。
ワイシャツに腕を通すときに、抗がん剤を入れる点滴の針を自分で抜いてしまうので、ワイシャツの袖はいつも血だらけだった。べっとりと血のついたワイシャツを、母は何枚、洗濯したか。
母が「看護師さんを困らせないでください。スーツは家に持ち帰りますよ」となだめると、父は烈火のごとく怒った。
「馬鹿野郎! パジャマじゃ仕事に出かけられないだろ!」
仕方なく病室のロッカーにはスーツと革靴、かばんを常備していた。
死の少し前にはがんが脳に転移したため、意識障害が始まっていたが、スーツに着替えていたのは、入院初期の、まだ思考もしっかりしていた頃からだ。
それはもう、執念としか言いようがない。鬼気迫る姿には、恐ろしささえ感じた。
父は、自分が死ぬとは思っていなかった。どこまでも生き続け、仕事をするつもりだった。だから母にも私にも、遺言らしい遺言はなかった。
事実、その強い意志によって、父は1年も生きたのである。
余命1カ月の宣告を軽々と越え、1年もだ。
兄の教雄が病室に来たとき、父はこう言っていた。
「兄貴、1年持ったんだから、5年は大丈夫だよな」
「そうだな、大丈夫かもな」
「5年持てば、10年だって大丈夫だ。この病院が始まって以来の記録を作っちゃうよな。兄貴も鼻が高いだろ」
父と二人きりの時間
病の発覚から、死まで1年。1年もあれば、父とたくさんのことを話しただろうと想像されるかもしれない。
確かに、それまでの父は仕事に明け暮れていたので、最後の1年間は父と一緒にいる時間が人生の中で一番長く、今振り返っても濃密だった。
しかし、父は生きる望みを全く捨てていなかったため、父はもちろん、私のほうも経営者のありようなどを話題にすることはあえて避けた。仕事について「ああしなさい、こうしなさい」と細かく教えを受けることもなかった。
もっとも、子供には口やかましく言わず、本人に考えさせるという教育方針は、昔から変わらない。自分で苦労しながら右へ左へとよろめき、壁に何度も頭をぶつけるほうが、人は成長すると考えていたのだろう。
病気になってから二人で何度か国内外の大戸屋の店を回ったが、そのとき「店のどういうところを見ればいいかな」と聞いても教えてくれない。「おまえが感じるまま。それが正しいんだ」。それ以上は何も言わなかった。
でも、私にとっては一緒にいるだけでよかった。
日々体力が奪われていく中でも、事業への情熱を全く失うことがない父。その姿から学ぶことは多かった。父もそうしたことを意識していたのか、毎日のように私に電話をかけて「今から来れないか」と呼び出した。
病院を抜け出し、近くにある串焼き店に二人でよく出かけた。病院の夕食時間が終わり、消灯までの時間が多かった。
「おい、行くか」
「いいよ」
医師や看護師の目を盗んで病院から出て、串焼き店に駆け込むと、互いの顔を見て「うまくいったな」と笑った。余命いくばくもない患者のことだから、おそらく医師も看護師も、気づかないふりをしていてくれたのではないかと思う。
カウンター席で酒を酌み交わし、焼き鳥をつまんだ。
男二人でたわいもないことをたくさん話した。本音では、父はもっと大切なことを私に語りたかっただろう。私も父に聞きたいことは山ほどあった。
けれど、末期がんに侵されながらも生きることに前向きな父を前に、私はいくつかの言葉を喉元で抑えた。
ただ、父がある晩、その店で唐突にこう言ったことはよく覚えている。
「栄一おじさんが亡くなってから、どうしてここまで大戸屋を発展させられたのかというと、おじさんが俺の中に入ってきてくれたからだよ。だから、俺の身に何かあっても、心配するな。俺の全部が、おまえの中に入るから」
うれしかった。涙がこぼれないように、大きく深呼吸した。
父は5年、10年と生きようとしたが、相続の準備だけは進めた。
父が持っている大戸屋の株式をどのように私たち家族に継承するか。上場企業である大戸屋の資本政策に関わる重要なことなので、父はメインバンクと相談しながら、慎重にスキームをつくり始めた。
最後の出張
余命宣告の1カ月を超え、3カ月、半年と父は生きた。幸いにも、抗がん剤がうまく効いてくれたからだ。
もしかしたら父が言うように、本当にずっと生きてくれるのではないか。がん細胞に打ち勝つのではないか。私たち家族もそう期待した時期があった。
しかし、それはかなわなかった。
(次回に続く)
(この記事は『創業家に生まれて』の第1章の一部を再構成したものです)
三森智仁(みつもり・ともひと)
1989年生まれ。2011年、中央大学法学部卒業後、三菱UFJ信託銀行に入社。13年大戸屋ホールディングス入社。14年ビーンズ戸田公園店店主。執行役員社長付を経て、15年6月に常務取締役海外事業本部長。16年2月退任。
日経BP社では、三森智仁氏の著書『創業家に生まれて~定食・大戸屋をつくった男とその家族』を発行しました。「絶対不可能」と言われた食堂の多店化は、なぜ成功したのか。世間を騒がせた会社側と創業家の対立の背景には何があるのか。外食業界に大きな足跡を残したカリスマの一代記を、家族しか知らない秘話とともに詳述しています。
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