「百貨店頼みの売り方を変えられなかったことに尽きる。客層を広げられず、タンスの中が平和堂貿易の宝飾品や腕時計でいっぱいという、昔からの高齢の常連客ばかりになっていた」

 売り方のどこに問題があったのか。平和堂貿易の歴史をひも解きながら、その誤算を考える。

社名を宣伝する新手法

 創業は1952年。木本さおり社長(仮名)の父、吉田武夫氏(仮名)が東京・銀座で時計の輸入販売を始めた。人々の憧れだった海外高級腕時計「テクノス」「ウオルサム」「ピアジェ」などの販売代理店契約を結び、百貨店に入るテナント企業や各地の時計宝飾店に卸販売をするというモデルで業績を伸ばした。

 「舶来品」にいち早く着目したことに加え、吉田氏が長けていたのはマーケティング戦略だった。

 当時、消費者の欧米ブランド信仰は強く、ブランド名を打ち出すだけでも腕時計や宝飾品はよく売れた。吉田氏はそれに飽き足らず平和堂貿易の社名をセットにして、宣伝活動を展開。これが会社の知名度を高め、商品を求めるお客が列を成した。

 さらに一流ホテルなどで展示会も開いた。購入した腕時計や宝飾品を身に着けてドレスアップする社交の場と、新商品即売会を兼ねたもので女性ファンをつかむ。ライフスタイルの提案まで踏み込んだマーケティングは斬新だった。

平和堂貿易のウェブサイト。高額宝飾品を多く扱っていた
平和堂貿易のウェブサイト。高額宝飾品を多く扱っていた

 そんな平和堂貿易もバブル崩壊以降は、市場の変化に翻弄されていく。平和堂貿易が扱っていた宝飾品・腕時計の中心価格帯は百数十万円だったが、高額品マーケットが急速に縮んだからだ。

 加えて、欧米高級ブランドのグループ再編などを背景に、海外メーカーが次々に日本法人を設立するようになった。ある取引先は業界事情をこう説明する。

「代理店が頑張って認知度を高め、売り上げを伸ばしたブランドほど、海外メーカーは日本法人を設立し、販売に本腰を入れようと考える。平和堂貿易も、そこに大きなジレンマを抱えていた」

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