100万円以上する高額宝飾品の輸入販売会社として高い知名度を誇っていた。高額品市場が縮む中でも百貨店頼みの売り方を最後まで変えなかった。若手社員が相次いで退職。企業改革の力を失い、自己破産に至った。
企業が破綻する時には、定石がある。今回は定石の1つである「世代交代できず、老舗が力尽きる」について、実際の例をもとに考えてみる。
「平和堂貿易から、スイスの高級腕時計『テクノス』をペアで差し上げます!!」
かつて、テレビのクイズ番組でおなじみだった、こんなフレーズを覚えている人も多いだろう。高級宝飾品・腕時計の輸入販売を手掛ける平和堂貿易(東京・港)が、2016年10月3日、東京地方裁判所に自己破産を申請した。負債総額は約7億円(東京商工リサーチ調べ)。
クイズ番組への賞品提供で知名度を上げた平和堂貿易は1990年代前半に120億円以上の売上高があったが、直近の2015年9月期は約11億円と、10分の1まで縮小。5期連続の赤字を計上し、窮地に追い込まれていた。
破産申請の翌日、東京・浜松町にある本社を訪ねた。債権者が詰めかけるわけでもなく、本社周辺は静かだった。受付で趣旨を伝えたところ、「立ち話でいいなら」と1人の幹部が対応してくれた。
「百貨店頼みの売り方を変えられなかったことに尽きる。客層を広げられず、タンスの中が平和堂貿易の宝飾品や腕時計でいっぱいという、昔からの高齢の常連客ばかりになっていた」
売り方のどこに問題があったのか。平和堂貿易の歴史をひも解きながら、その誤算を考える。
社名を宣伝する新手法
創業は1952年。木本さおり社長(仮名)の父、吉田武夫氏(仮名)が東京・銀座で時計の輸入販売を始めた。人々の憧れだった海外高級腕時計「テクノス」「ウオルサム」「ピアジェ」などの販売代理店契約を結び、百貨店に入るテナント企業や各地の時計宝飾店に卸販売をするというモデルで業績を伸ばした。
「舶来品」にいち早く着目したことに加え、吉田氏が長けていたのはマーケティング戦略だった。
当時、消費者の欧米ブランド信仰は強く、ブランド名を打ち出すだけでも腕時計や宝飾品はよく売れた。吉田氏はそれに飽き足らず平和堂貿易の社名をセットにして、宣伝活動を展開。これが会社の知名度を高め、商品を求めるお客が列を成した。
さらに一流ホテルなどで展示会も開いた。購入した腕時計や宝飾品を身に着けてドレスアップする社交の場と、新商品即売会を兼ねたもので女性ファンをつかむ。ライフスタイルの提案まで踏み込んだマーケティングは斬新だった。
平和堂貿易のウェブサイト。高額宝飾品を多く扱っていた
そんな平和堂貿易もバブル崩壊以降は、市場の変化に翻弄されていく。平和堂貿易が扱っていた宝飾品・腕時計の中心価格帯は百数十万円だったが、高額品マーケットが急速に縮んだからだ。
加えて、欧米高級ブランドのグループ再編などを背景に、海外メーカーが次々に日本法人を設立するようになった。ある取引先は業界事情をこう説明する。
「代理店が頑張って認知度を高め、売り上げを伸ばしたブランドほど、海外メーカーは日本法人を設立し、販売に本腰を入れようと考える。平和堂貿易も、そこに大きなジレンマを抱えていた」
海外ブランドによる日本法人設立の動きは、売り上げ減だけで済まなかった。社員の引き抜きが相次いだのだ。「日本法人を立ち上げるとき、それまで商品を売ってくれていた代理店の社員を引き抜けば、百貨店などの顧客との関係も出来上がっているので、手っ取り早い。この業界ではよくあること」と、前述の取引先は話す。
当然、力のある社員ほど引き抜かれる確率は高い。それがさらに平和堂貿易の体力を奪った。
財務改善に注力するも
その渦中の1998年、創業者の吉田氏を継いで、1992年から2代目社長を務めていた息子の吉田伸二郎氏(仮名)が退任するという騒動が勃発した。「経営方針などの対立により、伸二郎氏は海外有名宝飾ブランドの日本法人トップに移った」(関係者)。何とも皮肉な展開だ。
そして2002年に、伸二郎氏の姉の木本さおり氏が社長に就任。木本社長は保有不動産などを整理して、財務体質の改革に着手した。改革に目途をつけたのは2010年。しかし、その時点では以前にも増して高額宝飾品市場が縮小しており、再スタートを切るには遅きに失した感があった。
先の同社幹部はこう語る。
「百貨店頼みでは駄目だと分かっていても、ではどうすればいいのかというと分からない。百貨店関連の顧客を一回りすれば1000万円売れるというのが、うちの営業スタイル。低価格品に乗り出すという道もあったかもしれないが、自分たちのスタイルを崩すことはできなかった」
全く手をこまぬいていたわけではなく、インターネット販売を試験的に始めたこともある。しかし、ネットの価格競争にはついていけず、本格的には乗り出さなかった。また、従来はBtoBの商売だったが、BtoCの可能性を模索し、百貨店内に直営店も出したが、収益にはあまり貢献しなかった。
結局、次の方向性を打ち出せず、新しい海外ブランドを見つけ、それを百貨店に卸すというモデルは最後まで変わらなかった。
その背景には、社内に若手社員が少なかったこともある。海外ブランドの日本法人に引き抜かれた上、財務改革の過程で人員を減らしたからだ。社内は、古き良き時代を知るベテラン社員ばかりになっていたという。
展示会の集客力が低下
ここ数年は、より安い賃料を求めて本社移転を繰り返すなど、コスト削減でどうにかしのいでいた。そんな苦しい最中も、1975年から始めた展示会「秀宝展」は毎年続けていた。百貨店の売り場にリーフレットを置くなどして集客に努めていたが、2016年の来場者数は前年に比べて激減。これは、同社にとって大きなショックだったという。
自力再建は困難と諦めて、スポンサー探しに走ったが見つからず、自己破産に至った。
バブル崩壊から始まった高額宝飾品市場の縮小。「当初はその波がいつか収まり、自社の事業モデルが再び求められる時代が来ると、平和堂貿易の人たちは思っていたのではないか。しかし、動き出した波は止まらなかった」(取引先)。
社名と商品をセットで売るなど、新しい策をどんどん打ち出して市場を開拓した創業者。その精神に立ち戻ることが、早い段階で必要だったのではないか。
(この記事は、「日経トップリーダー」2016年11月号に掲載した記事を再構成したものです)
なぜ、あの企業は破綻したのか。経営者向けの月刊誌「日経トップリーダー」が帝国データバンク、および東京商工リサーチの協力を得て、
近年、経営破綻した23社を徹底取材。現場社員や取引先そして経営者本人の苦渋の証言、決算や登記簿などの資料から、破綻に至った経営を多角的に読み解く。
- 【主な内容】
- 第1章 急成長には落とし穴がある
- ■破綻の定石1 脚光を浴びるも、内実が伴わない
- ■破綻の定石2 幸運なヒットが、災いを呼ぶ ほか
- 第2章 ビジネスモデルが陳腐化したときの分かれ道
- ■破綻の定石4 世代交代できず、老舗が力尽きる
- ■破綻の定石5 起死回生を狙った一手が、仇に ほか
- 第3章 リスク管理の甘さはいつでも命取りになる
- ■破綻の定石8 売れてもキャッシュが残らない
- ■破綻の定石9 1社依存の恐ろしさ ほか
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