再生支援協議会が出した再生計画は「利益が出ている商品にアイテムを絞りなさい」という、ごく当たり前のものでした。既存設備を生かすより、利幅の厚い新事業を獲得するという私たちの戦略は、まるで見当違いだったのです。

 そんな未熟な経営で競争力を保てたのは1990年代まででした。自社の競争力が落ちたとはっきり感じたのは2003年頃。

 その年、農機に組み込む油圧シリンダーの仕事を中国企業に奪われました。父は「もっと付加価値のある仕事を探してこい。取ってきたらどんなに難しいものでも、現場で形にしてやる」と、営業担当だった私に命じました。

 それで2006年に建機の基幹部品である減速機の仕事に参入した。
 一時は業績が回復したのですが、やはりこのときも長続きしなかった。テラマチの歴史はいつもこうした繰り返し。自分たちの強みを正しく見極め、その強みをできるだけ生かしながら事業を広げればよかったと悔やんでいます。

 設備の無駄の多さに、全く手を打たなかったわけではありません。けれど、改革をやり切れなかった。なぜか。弟の存在です。

兄弟の確執が改革の壁に

 私は工学部の出身ですが手先が器用でなく、昔はシステムエンジニアになりたかったくらいで、ものづくりにのめり込むタイプではありません。それに対して4つ違いの弟は、祖父や父に似て、製品開発が好きでした。

 弟は私と同じ大学を出て、テラマチに入社。私が社長になってからは、専務として開発・生産を見てくれていました。父は、自分の気質と似た弟を社長に据えようとした時期もあり、弟も乗り気でしたが、結局私が社長になった。

 設備売却の話を持ち出すと、弟は決まって反対しました。ものづくりの環境を死守したかったのでしょうか。再生支援協議会が入り、事業縮小案を出されても、弟はその案を受け入れようとはしませんでした。

 テラマチの株はほぼ私が持っていたので、弟に退任を迫ることもできましたが、決断できなかった。弟は開発・生産の社員を味方につけていましたから、弟がやめると現場が混乱するという点もためらった理由です。

 私は人に優しすぎる面があるのでしょう。祖父はカリスマタイプで、父はワンマン型のリーダーでした。どちらかの資質を受け継いでいれば、弟や社員の考えを変えることもできたのでしょうが、3代目の私は父の強引な面を間近で見てきたせいか、性格が妙に円くなったような気がします。

 家庭での父は、私たち兄弟にとっては絶対的な存在で、怒るとすぐに手を上げました。父には怖いイメージしかありません。仕事相手にも横柄なところがあり、お客様がコストダウンを求めてくると一方的に仕事を打ち切ることがよくあった。断りに行くのはいつも、私の役目でした。

 大阪から愛媛に引っ越したとき、小学生だった父はいじめられたそうです。それが、自分を大きく見せようという性格をつくったのかもしれません。