ドラッカー教授の著作に学んで、成果をあげた日本の中小企業を紹介する本連載。ドラッカー教授の言葉を解説した後、その言葉の理解を深めるのに役立つ実例を紹介します。

 今回は、肩書きこそ役員だったものの“名ばかり専務”だった、老舗企業の社長の妻が、本物の経営者に脱皮したケースです。

 ドラッカー教授のある言葉をきっかけに、生きることの意味を問い直しました。

 本連載の最後を飾る、この教授の至言は、ビジネスパーソンにかぎらず、すべての人にとって示唆深いものだと、私は感じます。読者のみなさまは、どう思われるでしょうか。

【ドラッカー教授の言葉】

 私が一三歳のとき、宗教の先生が「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。すると、「答えられると思って聞いたわけではない。でも五〇になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」といった。

『非営利組織の経営』(ダイヤモンド社)

【解説】

 ドラッカー教授が生涯、自らに問い続けたのが、この「何によって憶えられたいか」です。なぜでしょうか。昨日と異なる自分であり続けるためです。
 誰にどんな存在として憶えられたいかを問うことは、未来に思いを馳せることです。未来の人々が、今の自分の貢献に感謝し、記憶に残す。そんな未来を生み出そうと考えれば、おのずと後世のために今、自分がなすべきことは何かを問うことになります。
 その結果、姿勢が変わり、行動が変わる。そして、覚悟が決まります。

【実例】

 初めは主婦業の延長のようだった。

 食品メーカー、真田(京都府宇治市)の真田千奈美専務は1982年に、当時取締役だった真田佳武社長と結婚。会社の経理や総務を手伝うようになった。「家計簿を付けている感覚だった」という。

老舗の嫁として夫を支えるも……

 真田は「山城屋」ブランドで乾物の製造、販売を手掛ける。

 明治初期の1904年、山城屋の商号で煮干問屋として創業。第2次世界大戦後、スーパー向けの食品卸などに業容を広げ、株式会社に改組した。そのけん引役だった中興の祖が、病弱だった初代社長の妻で千奈美専務の義母にあたる、前会長の悦子氏だ。

 メーカーに業態転換したのは、81年のこと。取締役だったころの佳武社長が主導した。「大手スーパーの購買力が高まるなか、売上高30億円ほどだった、うちのような中小卸は生き残れない」とにらんだ。

 メーカーとしては売上高5億円ほどからの再スタートだった。しかし、強みのあった乾物分野の知識を生かし、当時まだ珍しかった「金ごま」を「京いりごま」の名前で商品化。大ヒットさせるなど、高付加価値路線で軌道に乗った。

 こうして2005年12月期には、売上高36億円に成長した。

 しかし、その間、千奈美専務は、肩書こそ役員だったが子育てにも追われ、経営陣としての意識は薄かった。

真田佳武社長(右)と千奈美専務
真田佳武社長(右)と千奈美専務

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