靴下専門店の全国チェーン「靴下屋」を一代で築いた、タビオ創業者の越智直正氏。メード・イン・ジャパンにこだわり、生涯最高の靴下を作るべく、76歳の今なお靴下づくりに尋常ならぬ執念を燃やす。靴下バカ一代、越智氏が国産靴下に懸ける熱情を語る。第2回目の今回は、素直に教えを請うことの大切さを説く。前回の記事はこちらをご覧ください。
松下幸之助っていう人がおりますな。日本将棋連盟から幸之助さんに名誉段位を贈るという話が持ち上がりました。将棋普及のためならと、幸之助さんはその申し出を受けたそうです。だが、そのためには勝ち負けは別にして、将棋連盟の人と一度、将棋を指す必要があります。その儀式を経て晴れて名誉段位が贈られるのです。
幸之助さんの対局の相手は、時の名人、大山康晴さんでした。さてどちらが勝ったか。幸之助さんのぼろ勝ちです。一体どういう手を使ったか。
将棋は弱いほうが先に指すのが決まりです。幸之助さんはそれを知らなかった。盤を出して駒を並べると、大山さんに敬意を払って、「先生、お先にどうぞ」と言ったそうです。これで大山さんはまずドキッとしたわけです。
大山さんが指すと、幸之助さんは全く同じ手を指してきた。指しても、指しても、全く同じところに指してきたというのです。しかも幸之助さんは形勢が悪くなると、「先生、この場合はどうしたらいいのですか」と聞きよったといいます。大山さんが「こうしなさい」と5、6回教えていたら、知らぬ間に大山さんが負けていた。大山さんは「松下さんにはかなわない」と言ったそうです。
おち・なおまさ
1939年愛媛県生まれ。68年に独立し、ダンソックス(現タビオ)を創業。靴下の卸売りを始める。82年に小売りに進出。84年に「靴下屋」1号店をオープンすると同時にフランチャイズチェーン展開を開始。品質の高さと独自の生産・販売管理システムでタビオを靴下のトップブランドに育て上げる。2000年、大証2部に上場。08年から会長。「靴下の品質は頬に当てるとよう分かる」と越智氏(写真:太田未来子)
これこそが、あほうの生き方ですよ。僕は(松下氏の創設した出版社の)PHP研究所で話すことがあると、いつも言いますのや。「あんたのところの創業者と比べて、僕のほうが学歴は高い」ってね(笑)。幸之助さんは小学校しか出てへんからね。「それだけが誇りや。ほかに何もないわ」とよう言うのです。
下問を恥じるな。赤子にでも教えてもらえ
聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥と言います。僕は中卒やし、子供の頃からさほど聞くことに対する恥じらいはなかったですな。学とか知識がないというのは自分で分かっていたし、分からなかったら分からないと素直に聞けましたわ。知らないことが多過ぎると、かえって聞くことが恥ずかしくなくなります。
それでも丁稚時代、知らないことを聞くに聞けず、1人で悶々としていたとき、大将から叱られました。「下問を恥じるな。知っていれば、赤子にでも教えてもらえ」は、そのときに教えられた言葉です。「最悪の無知とは、自分が無知だと知らないことだ」とも言われました。それからは、知らないことは何でもすぐ聞く、話している最中でもすぐ質問するくせが付き、ずいぶん楽になりました。
社員を質問攻め
知らんことはさっさと素直に聞いたら得なんですわ。今の子たちはみんな大学を出ているでしょ。だから僕より頭がええんですわ。膝から下のことは僕のほうが詳しいか知らんけどね。僕は困ったことがあったら、すぐに社員に聞きに行くよ。新入社員でもおかまいなし。そうやって社員をよく質問攻めにしているんです。
僕が聞いたことに対して「いいえ、知りません」と言ってみ、「なんやて、お前は大学を出ているのに、こんなことも知らんのか」と怒りまくります。「会長は知ってて聞いているのですか」と返されたら、「知っとったら聞くかボケ」と言いまんねん。
ある社員が「越智会長はどういう人ですか」と聞かれて、「はい、この人は自分では何もできませんが、人のことはぼろくそに言う人です」と答えていましたわ。人の上に立つ者が何でも知っている必要はありません。優秀な社員を抱えていればいい。分からないことは聞けばいいのです。
分からないことはどんどん人に聞けばいいし、苦手なことは得意な人に教えてもらえばいい。
タビオが創業した頃、紳士物靴下市場は大手メーカーがかなりのシェアを押さえていました。これに対し、当時まだ市場規模が小さかった婦人物には大手があまり力を入れておらず、参入企業は中小メーカーや問屋が中心。婦人物だからと、品質よりデザインを重視するメーカーがほとんどでした。
僕は自分のところの靴下の品質に絶対の自信がありましたから、この市場に懸けた。おかげさまで気付いたら婦人物靴下のトップブランドになっていました。
最初に僕が婦人物に転身しますと言ったら、みんなが「越智さんに婦人物ができるんかい」と笑いましたよ。僕がファッション音痴なのを知っとったからね。
にもかかわらず、なぜうちがトップになれたのか。
僕自身、自信はなかった。ただ僕がファッションに全く自信がなかったからこそ、婦人物靴下の世界で頭角を現すことができたと思っています。
婦人物は一から勉強しましたが、知らないことがたくさんありました。分からないときは素直に取引先の仕入れ担当や小売店の販売員の女の子たちと打ち解けて、いろいろなことを教えてもらいました。
「こんな商品を作りました」と持っていくでしょう。そうすると、「越智さん、ここはこういうふうに変えたほうがいいよ」と言ってくれます。「あんたの言うことがどんなものか分からん」と言うと、店中走り回って探してくれて現物を見せてくれますのや。
僕は「はい、分かりました」と、その足で工場に行く。夕方終わる間際の工場に走るんだからね。工場長にたい焼きやたこ焼き、アイスクリームなんかを持っていきまんねや。それで工場長に「ちょっとすまんけど、やってくれ」と言うてね。
すぐに向こうの指示通りに変えて、明くる日サンプルを持っていくんですよ。えらい速さで作ってくるものだから、みんな仰天しよった。それを続けるうちにいつの間にやら、うちが婦人物ではトップになっていたのです。
アドバイスしてくれた人が、僕の味方になってくれたんですな。味方にしようという下心はなかったよ。ただ、その人が懸命に教えてくれるから、こっちも懸命にその人の言うことを聞きよっただけ。
「社長を見捨てられなかった」
経営者は自分より賢い人間が好きじゃなかったらあきまへん。頭がいい人は、自分より頭のいい人が嫌い。だから意外とあほうが支配するようになってまんねん。世の中はよくできています。
うちにも大学を出た頭のいい連中がいます。そのうちの1人、役員をしていた男がこういうことを言っていました。「本当は別の世界で生きたかった。でもうちの社長に会って、靴下の話を聞いて、僕はきっぱり自分の夢を捨ててしまった。僕は社長を見捨てられなかった」と。
あほうはあほうなりに一生懸命やらないといけない。一生懸命やっていたら、賢い連中が集まってきて、何とかしてやろうと言ってくれるのですよ。
(この記事は日経BP社『靴下バカ一代』を基に再構成しました。構成担当:荻島央江)
靴下専門店の全国チェーン「靴下屋」を一代で築いたタビオ創業者、越智直正氏の人生訓。15歳で丁稚奉公を始めてから60年、国産靴下に懸ける尋常ならざる熱情を語り、経営の王道を説く。『靴下バカ一代』はただいま予約受付中です。詳しくはこちらから。
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