失礼ながらその国を知らなかった。ルーマニアとウクライナに挟まれた、九州よりもやや小さい面積の国・モルドバ共和国。存在を知ったきっかけはあるニュース。昨年12月8日に在日モルドバ大使館が、そして今年1月1日に在モルドバ日本国大使館が開設されたと聞いたからだ。
大使館ができたということは、両国にはそれなりの交流があるはず。調べてみると、モルドバは農業国であり、特にワインの生産が盛んで、近年は日本にも入ってきているようだ。日本には159人(2014年6月時点)のモルドバ人が住んでいて……そして見つけました、日本唯一らしいモルドバ料理の店を。
幸福という名の居酒屋
その店は東京の葛飾区亀有にあるという。亀有といえば、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』で知られる「ザ・下町」。昭和のにおい漂う町並みにモルドバの店がどう溶け込んでいるのか、そんな興味も抱きつつJR亀有駅に降り立った。
住宅と商店が混在するエリアで、その店は大きな国旗を掲げて主張していた。しかし、店の入り口に立って少し戸惑う。屋根が付いた和風の引き戸。そして看板には……居酒屋 NOROC(ノーロック)?
「2014年の12月にオープンしたんですが、ここは下町ですからね。レストランにすると敷居が高くなる。ましてやモルドバなんて知られてない国は敬遠されかねないので、親しみやすい居酒屋にしたんですよ」
にぎやかな店内。左上の刺繍の飾り物はディアナさんのおばあさんがつくったものだという。ノーロックとはモルドバの言葉で祝福という意味。乾杯する時の掛け声でもある
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倉田昌明さんとディアナさん。ディアナさんは首都キシニョフの出身。店をオープンする時には両親と妹さんがモルドバから手伝いにきたそうだ
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そう教えてくれたのはオーナーの倉田昌明さん。店内にはテーブル席のほかに座敷もあってまさに居酒屋。それでいて、モルドバの風景写真やロシアの民芸品マトリョーシカが飾られて異国情緒も醸す。この肩の力が抜けた雑多な空間、不思議と居心地がいい。
まずはママリーガ
しかし、メニューにあるモルドバ料理は本格的。担当するのは倉田さんの奥様でモルドバ出身のディアナさんだ。モルドバのソウルフードを尋ねると、「国民みんなが好きな料理の中で、特に私の思い入れが強いものです」と言って出してくれた。
「ママリーガとトカナです」
お皿に乗っていたのは、角切りにした肉の煮込みと蒸しパンのようなもの。ニンニクの香りがふわりと漂い食欲をそそる。
「ママリーガはモルドバの主食の一種。トウモロコシ粉に水と塩を入れて、弱火にかけながら練り上げます。ある程度固くなったところでバターを混ぜてできあがり。トカナのような肉料理やチーズと一緒に食べます」
まずはママリーガだけを口に入れた。見ためよりもギュッとしていて固め。バターの風味がふわっと香り、やがてトウモロコシの自然な甘みが舌に伝わってくる。クセがないのでどんな料理にも合いそうだ。
一方、トカナは玉ネギの煮汁で豚肉を煮込んだ料理で、豚肉が口の中でほろりとくずれるほどやわらかい。ニンニクと唐辛子などのスパイスで味付けをしているが、ニンニクがきいたパンチのある味なので、マイルドなママリーガがよく合う。ママリーガに肉とトロトロの玉ネギをのせて、マリアージュが生み出すうま味をゆっくりとかみしめる。
時間をかけて
「トカナは休日に家族と一緒に食べる料理なんです。どこの家庭でも同じですが、私にとって思い出深いのは、年末の休みに田舎の祖父母の家にいくと、おじいさんが家畜の豚をほふって大きな鍋でトカナをつくってくれたこと。それをママリーガと一緒に家族みんなで食べるのが美味しくて。いつも楽しみにしていたんです」
トカナは何時間もかけて煮込むという。孫たちを喜ばせようと準備しているおじいさんの後ろ姿がまぶたに浮かぶ。
「トカナはお家ごとに味が違って私も家の味を受け継いでいるけれど、日本に来てから唐辛子を少し入れるようになりました。モルドバは塩とコショウがメインのシンプルな味だけど、日本人は辛い料理とか好きだからね」とディアナさん。そこに、「トカナに限らず、モルドバ料理はすごく時間がかかるんですよ」と倉田さんが話を継ぐ。
「結婚したばかりの頃、朝起きると彼女がキッチンに立っている。朝食の準備をしてくれているのかと思って聞くと、なんと夕食の準備をしていたんです」。びっくりしてディアナさんを見ると笑顔でうなずく。特別な日ならいざ知らず、日常的なことらしい。
ママリーガ(右)とトカナ。トカナは、東はニンニクが多く、西は入れないなど地域による違いもある。また、ディアナさんは鶏肉でつくることもあるという
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「パンやペレメニ(餃子のような料理)の皮はもちろん、チーズやサワークリームも自分でつくっているんです。モルドバでは買うこともあるけれど、日本のチーズはしょっぱくてモルドバ料理に合わない。だから余計に時間がかかっているかもね。今日も朝食べるパンに練りこむチーズをつくっているところですが、これは32時間くらいかかるんですよ」
パンの材料をつくるのに32時間……。しかし、ディアナさんは楽しそうでサワークリームを味見させてくれた。まろやかでコクがあるのに後味はさっぱり。手づくりならではのキメの細やかさがある。思わず、「すごいなあ」と感心すると、「私はまだまだ勉強中です」と意外な言葉がかえってきた。「私のお母さんは30年もお店のキッチンに立っていた人で料理がすごく上手。お母さんの味にはかないません」
結婚と開店
それなら、やっぱりお母さんに料理を教わったのか。そう尋ねると、これまた意外にも首をふる。「子どもの頃、手伝おうとするとお母さんは決まってこう言うんです。いまはやらなくていいのよ、結婚したらいっぱいつくれるんだからって。それでも美味しくつくれるようになりたいから、お母さんがつくっているところを見ながら覚えました」
そして結婚したディアナさんは旦那さんやお子さんのために料理をつくるようになった。とはいえ、まさか店を開くとは思っていなかったそうだ。それも日本で。ディアナさんはダンサーで、国の派遣で日本にやってきた。そして各地で公演しているなかで、共通の友人を介して倉田さんと知り合ったという。居酒屋を始めたのは、モルドバという国を日本人に知ってほしいと思ったからだとディアナさんは言う。
豚肉や玉ネギ、お米などをピーマンの中に入れてトマトソースで煮込んだ「キッパロッシエンプーツ」。ディアナさん手づくりのサワークリームをつけていただく。ピーマンの代わりにキャベツやブドウの葉を使うことも多く、店ではキャベツの料理が食べられる
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モルドバワイン。中央の「プルカリ」はモルドバ南東部のプルカリ村にあるワイナリーで、英国王室やロシアの皇帝に愛された
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「ロシア料理の店はたくさんあるけれど、モルドバ料理はどこにもなかった。それにモルドバはワインの国。美味しいワインがたくさんあって日本にも入ってきているのに、日本人はフランスとモルドバだったらフランスを選ぶでしょう。ここでモルドバワインを飲んでファンになってくれたらと思ったんです」
モルドバは欧州では特に古いワインの産地で、紀元前3000年頃にはつくられていたという。国の主要産業として栄え、英国をはじめ欧州各国の王室でも愛飲されている。都市部を除いてモルドバ人の多くはブドウの自家農園を持っていて、自分たちでもワインをつくるそうだ。すすめられて赤ワインを1杯いただいた。ほどよいコクで渋みが少なく、華やかな香りが鼻腔に残る。
モルドバワインとともに
「店を始めて1年余り。日本人の常連さんもたくさんできました。それに在日のモルドバ人やルーマニア人、ロシア人も来てくれます」と倉田さん。モルドバは15世紀にルーマニア系の人たちが設立した国だが、オスマン・トルコの支配下に入り、その後もロシアとルーマニアの間で領有権が争われるなど複雑な歴史をたどってきた。
料理もその影響を受けていて、ボルシチはモルドバでも食べられるし、文化も言語も近いルーマニアではママリーガはとてもポピュラーな料理だ。店にはロシア人やウクライナ人のスタッフもいて、ロシア料理も出すという。この居酒屋に国境はない。
「今度、在日モルドバ人みんなでモルドバパーティをするんです。モルドバの料理を並べて、モルドバのワインで乾杯する。在日モルドバ人は数が少ないし、住んでいるところもバラバラでなかなか集まれなかったけど、この店ができたことが気楽に集まるきっかけになった気がします」
ディアナさんは笑顔で言う。もちろん、ママリーガとトカナは欠かせないそうだ。「モルドバ人が店にくる時は誰もが決まって注文するんです。それに大切な家族が集まった時に食べる料理ですからね」
(このコラムは、ナショナル ジオグラフィック日本版公式サイトに掲載した記事を再掲載したものです)
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