正月休みが明け、日本テレビによる箱根駅伝の裏側に密着したドキュメント「もうひとつの箱根駅伝」のオンエアも終わり、毎年、箱根駅伝終了後に必ず出てくる、炎上メディアによる「箱根駅伝不要論」も落ち着き、あれだけメディアに登場した青山学院大学・原監督の顔のほくろの位置が「右頬だっけ、左頬だっけ?」と曖昧になって、青学の4連覇の記憶も薄らいできたこのタイミングで「箱根駅伝マニアックス」。2018年最初の更新です。
この「箱根駅伝マニアックス」というタイトル。私がつけたものではなく、担当編集Sさんによるもの。
そうかなあ、マニアックかなあと思っていたのですが、ふりかえるとそうかもしれません。箱根駅伝まであと2日となった12月31日。まずは早稲田大学所沢キャンパスで行われた通称「漢祭り」へ。

大晦日の所沢、漢たちが走る「箱根0区」
早稲⽥⼤学競⾛部の恒例⾏事となっている⻑距離記録会で、箱根駅伝に惜しくも出られなかった選⼿たちによる1万メートルの記録会。メンバー⼊りできなかった選⼿がここで気合の⼊った⾛りをすることによって、箱根メンバーを⿎舞し、チームの⼠気を高める「箱根駅伝0区」ともいわれてます。箱根に出られなかった悔しさをここにぶつけ、翌年につなげていく選⼿も多いと聞きます。

今回は早稲田大学だけでなく、城西大学、東京国際大学が1万メートルにエントリー。出走表にはこのレースが引退レースとなる4年生のエントリーもちらほらみえます。

OBと関係者くらいしかいない閑散としたグラウンドには緊張感が漂う中…

熱い走りがグラウンドで繰り広げられるのです。競走部メンバーやOBたちからの叱咤激励が飛ぶ中、選手たちの熱い走りにまず涙。そして、レース後は全ての選手が力を出し尽くし倒れ込む姿をみてまた涙。


彼らの走りを反芻しながら、都内に戻り、翌朝は1月1日。朝4時に都内を出発して、群馬県でニューイヤー駅伝の全区間をまわりきって、都内へ戻り、親戚への挨拶をすませ、仮眠をとったら、箱根駅伝。大手町から箱根まで追いかけて、往路は小田原のAirbnbに宿泊。翌朝、早朝から芦ノ湖のスタートを見届けて、中継所を転々としながら大手町のゴールにかけつけ、ようやくこれで終わりと思いきや、箱根駅伝が終わったばかりの1月4日の早朝6時。ぼくは多摩川河川敷におりました。総合12位。翌年のシード権を逃し、2018年は予選会から勝ち上がらねばならなくなった、かつて「平成の常勝軍団」と呼ばれた駒澤大学の朝練を観るためです。

12月31日からずっと転戦してきて、駅伝5daysの最終日がこれなのです。極寒の多摩川から駒澤大学の朝練を眺めていると、暗闇の向こうから「おはようございます!」という声。駒澤大学OBで、フルマラソン前日本記録保持者でもある藤田敦史コーチの姿が。
「応援ありがとうございます。練習、観てやってください。こちら、お使いください」。駒澤レジェンド自ら携帯カイロの差し入れが。

「このカイロ、ありがたすぎて、使えないよね」と思いながら、新年早々から、選手たちがスピードトレーニングで追い込んでいる姿を目に焼きつけていると、多摩川の向こう岸、川崎側では、國學院大学の選手が集団走している姿。もう、来年の箱根駅伝は始まっているのです。
…と、ここまで書いてきて、確かに少々マニアックかもしれないということに気づきました。
(「少々」じゃないと思いますよ、西本さん… by編集担当S)
すべては砧公園の肉離れから始まった
たいていの方と同様、かつては二日酔いの頭でぼーっとテレビを観続けていたぼくが、箱根駅伝を前のめり気味に観るようになったきっかけは、10年前のこと。
メタボ対策のためにジョギングを始め、自宅近所の砧公園を走っていると、後ろからとんでもないスピードで抜き去った駒澤大学の1人の選手に(駒澤大学は寮が二子玉川にあり、大学横にある駒澤公園ではなく、砧公園や多摩川河川敷を走る)、「ついていってやれ!」と追いかけて、肉離れを起こした翌年。
自分を肉離れに追いやったあの選手が、箱根駅伝「花の2区」を走っている姿を沿道で見つけます。「わっ。あいつだ! なんて名前なんだろう」と、その選手のことを調べたことが始まりです。
その選手とは、宇賀地強選手(駒澤→コニカミノルタ)。
「翌年の箱根駅伝だけじゃなく、彼の走りを観ることはできないのか」。関東インカレや日体大記録会など、自分を肉離れに追いやった選手の試合を追いかけていると、宇賀地選手が世界陸上に出場するまでの選手に成長。彼の競技レベルが上がっていくと同時に、ぼくの観る目も肥えていったのでありました。

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