頭の良さは固定的なものではない

 ただ、どの頭の良さの定義を使うにしても、それをいつも維持できるものではないと私は考えている。

 日本の場合は、頭の良さが固定的に考えられることが多い。

 私は今年で57歳だが、東大の理科Ⅲ類に合格して、東大の医学部を出ているから頭がいいといまだに言われたりする。40年前の受験生時代なら、受験学力(もちろん頭の良さの一種であるが、それだけで頭がいいことにならないのは前述の通りだ)ならそうそう人に負けない自負があったが、今もう一度東大を受けろと言われても受かる自信はない。一応、教育産業に携わっているから、ある程度は入試問題に触れているが、数学力も記憶力もとても受験生時代のレベルが維持されているとは思えない。

 ただ、私自身はその頃より頭が良くなった、というか、昔の自分はバカだったと思うことはある。大学生時代はろくに勉強しなかったが、大学を出てからはかなり勉強しているつもりだし、精神科医として心理学を勉強したことや人生経験を積んだこともあって、対人関係スキルはずいぶん上がった気はする(昔が酷かったこともあるが)。

 中学受験や高校受験のときは負けていて、二流どころの中学や高校に入っても、3年なり6年の勉強で逆転して、東大や医学部に入ることがある。そのように、どこの大学に入ったとしても、その後にどれだけ勉強したかで5年、10年のうちに逆転することはあるだろう。というか、あって当たり前だ。

 例えば、東大教授という肩書きにしても、確かに教授になった時点では、その分野ではかなり高い知的能力を有しているのだろう。しかし、日本の場合、大学教授は定年まで身分が保証されるのと、雑務が増えるので、ろくに勉強しないという人は珍しくない。例えば、本年度のノーベル経済学賞は心理学と経済学を融合させた行動経済学者のリチャード・セイラーが受賞したが、東大の経済学部の教授で、経済の心理的影響に言及するような人を私はほとんど知らない。

 それ以上に、頭のいい人間の頭を悪くする落とし穴がいっぱいある。普段なら、優秀な判断ができる人がかっとなったり、不安になったりして、とんでもない判断をすることは珍しいことではない。やはり、瞬間的かもしれないが頭が悪くなっているということだ。

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