テレビや新聞が批判を恐れるためとか、「客観性」にこだわるためか、読者や視聴者が大体予想のつくような「無難」な番組や記事が多くなっている気がする。このため、本連載ではあえて常識的なことは言わないようにしてきた。別の見方や考え方もあるよということを伝えることに意義があると信じているからだ。
そういうわけで時に極論と思われるような話もあえてしてきたわけだが、極論にも意義があると思えるようになったのは、榊原英資さんとの対談を通じてだ。
「そりゃ極論だよ」と切り捨てていませんか? 思考の幅を広げると、脳の老化を防いでくれるそうです。(©elwynn-123RF)
極論を知り、想定内の範囲を決める
榊原さんは大蔵省財務官として、ローレンス・サマーズなど米国との幅広い人脈を駆使して、積極的な為替介入によって超円高の是正に成功し、「ミスター円」の異名をとった。私は榊原さんと対談で本を作ったことがあるのだが、非常に学ぶことが多かった。
態度が謙虚かどうか以上に、自分はまだまだ知らないことがあると考える、知的謙虚さの必要性も彼から教わった。私が今でも、精神分析では3か月に一度教えを乞いにロサンゼルスに行くのも、神経症の治療法の一つである森田療法のセミナーに通い続けるのも、あるいはイスラム学者の友達やアンチエイジングの師匠など、学べる人がいれば学び続けるのはその影響と言っていい。
その榊原さんは、アメリカに行くたびに、最も楽観的なエコノミストと最も悲観的なエコノミストに会うとのことだった。どちらも極論と目されているのだが、その見解を知ることで、たとえば為替の相場について、ここからここまでの範囲に収まるという見通しが立つとのことだった。
国の通貨政策の責任者である以上、どんなことが起こっても対応しなくてはいけないわけだから、この備えあれば患いなしの姿勢には頭が下がったが、そのためにはその対応の範囲を想定しないと無駄が多くなるのも事実だ。そのために極論が必要なわけだ。
北朝鮮の有事についても、半分以上の確率で起こるという極論から、起こりっこないという極論(私はそう思っている)があるわけだが、どちらが正しいというのではなく、いろいろな可能性がある。そうした極論の範囲でものを考えるという榊原さんの姿勢は、まさに私が考える「知的」そのものである。
答えを一つに決めない
私はこの榊原さんの考えに影響を受けてから、勉強の意味が変わってきた。
何のために勉強するかというと、一つの答えを出すということより、色々な可能性、考え方があるということを知るために勉強するという姿勢になった。
例えば、南京大虐殺のような歴史上の事件にしても、「なかった」という極論から、「20万人を虐殺した」(これも極論のように思えるが、それが定説になっていたわけだが)というものまでさまざまな説があるのだが、以前だったら、どの説が正しいかを知るために色々と勉強したころだろう。しかし今なら、歴史というのは色々な説があるものだと考え、そのまま色々な説を受け入れることだろう。
実際、本当のところは不可知だし、せっかく正しいと思った答えを知ったところで、将来にはその説が覆されるかもしれない。学問的論争の当事者で、どちらかに決めないといけないというのならともかく、通常であれば色々な説を受け入れられたほうが、将来がっかりすることもない。
それ以上にいいのは、ある説がダメになったときに、次の説への移行が容易だということだ。不確実な時代であるから、たとえばビジネスの成功セオリーにしても、ころころ変わる。一つの説に固執していると、適応が困難になってしまう。また分かった気になると、それ以上勉強しなくなるとか、ほかの説を求めなくなるという弊害も生まれる。
答えは一つではないし、今の答えも現在は通用するが、その後の時代の変化や学問の進歩でどうなるか分からないというスタンスが適応的だろう。
さらにこのようなスタンスでいれば、相手に議論を吹っ掛けられても、「あなたの言うことも正しいかもしれないね」と受け入れることで無用の争いは避けられる。しかし、これは自分の説を引っ込めることではない。「でも、私の説だって間違っているとは限らないし、少なくともそれは証明されていないと思うんだけど」と返せばいい。それでも自説に相手がこだわれば、その説の正しさはともかくとして、相手が頭が固いと思っていれば、腹も立ちにくいだろう。
そういうことができれば、嫌いな人の意見でも、言下に否定するのでなく、一つの考え方と見なすことができる。
極論というのは受け入れにくい分だけ、この手の思考術を身に着けるためのいい材料になると私は信じている。もちろん、それは極論を信じろという意味でなく、そういう考え方もあるというように言下に否定しないことで、思考の幅を広げることに意味があるのだ。
思考の幅を広げることはメンタルヘルスにも良い
私が、このような「それもあり」「そうかもしれない」思考と呼んでいる考え方を勧めるのは、精神科医の立場からみて、そのほうがメンタルヘルスに良いとされているからだ。
現在の精神医学の考え方では、「かくあるべし思考」とか、「この道しかない」と思うことが最も心に悪いとされている。
「そうでなくてもいいじゃないか」と思えることが心の余裕につながり、鬱の予防になったり、鬱になったときに悪化を防げるということだ。
いじめ自殺として報道されるような事件にしても、「この学校にいなければいけない」「親に心配をかけてはいけない」という形で、かくあるべし思考のために逃げ道がなくなり、人に頼ることができなかったというケースがほとんどだ。
例えば、開成高校から東大といったエリートコースを経て、財務省の官僚になったような人が、仕事の失敗で、次官への道を絶たれて自殺するというような場合、挫折を知らないからという解釈がなされることが多い。しかし、私に言わせると、その人が開成→東大→財務省→次官という直線的な人生の選択肢しか持たなかったほうが問題だろう。仕事の失敗で出世の道が絶たれても、趣味に生きられればいいとか、外資にでも移って金を稼ごうとか、ほかの選択肢が思いつけば自殺ということにはならない。
現在の心の治療のトレンドである認知療法では、絶望している人、絶望しがちな人に、ほかの可能性も考えられるように仕向けていく。
極論も含めて、いろいろな考え方を受け入れられるようになり、思考の幅を広げ、色々な可能性が考えられることはメンタルヘルスにもいい。
極論を聞くと前頭葉の老化が予防される
もう一つ、私の専門分野である老年精神医学の観点から、極論にあえて接するほうが今の時代にマッチしていると思うのは、そうした考え方が超高齢社会を生き抜くためにも役立つからだ。
要するに、それが脳の老化を予防するのだ。
私の長年の高齢者医療や、何千枚もの脳の画像(MRI検査やCTスキャン)を見てきた経験から言えることは、人間の脳というのは前頭葉から縮み始めるということだ。
前頭葉の機能が低下すると意欲が衰えるため、頭や体を使わないようになり、それが脳や体の老化を進めてしまう。また感情のコントロールも悪くなるため、キレやすくなったり、落ち込みが止まらず、鬱になりやすくなったりするために、社会的・対人的な不適応にもつながる。
前頭葉が活性化されるのは、想定外なことに出会った時とされる。ルーティンワークをやっている際は、例えば、読書や会話では側頭葉という脳の部分が用いられ、計算や設計では頭頂葉という場所が使われる。前頭葉というのは、クリエイティブなことを行う際や、これまでやったことのないもの、見たことのないものに出会った際の対応に用いられると考えられている。
ということは、前頭葉を使うためには、ありきたりの話に触れる、仲間内の相手が言うことがおおむね予想できる会話ではダメで、普段読んだことのない意見や知識が書いてあるような本を読むとか、異業種のビジネスパーソンとの交流を深めるなど、普段とは違う会話ができる場に出向くことが必要となる。
また強い刺激ほど前頭葉は反応するとも言われている。極論や暴論はさすがにその信者になってしまうと不適応は多いが、それに触れることは脳の老化予防になると言っても過言ではないだろう。
ニュースは事実であっても編集される
ユダヤの格言に「うのみにするな。人間は鵜(う)ではない」というものがある。
うのみにするのではなく、考えることに価値があるということなのだろうが、これは極論だけでなく、定説とされるものにも同じスタンスで臨みたい。
テレビのニュースなどの場合、批判されないように、裏付けの取れたものばかりが並べられるのであるが、池上彰氏が論じているように、それは編集されたものであるという側面がある。事実であったとしても見せ方によって、見る側にある種の誘導をもたらすことは確かだろう。
高齢者の交通事故を立て続けに報じれば、それが事実であるがゆえに、非常に危険であるという印象を与える。しかし、若者の交通事故が報じられないだけで、実際は事故率は24歳までの若者のほうが高い。
たまたまラジオに出ていた時に、加計学園事件についての前川喜平・前文部科学次官の記者会見があるということで話題が持ちきりだったが、翌朝の情報番組は全局、トップニュースから外していた。芸能人の大麻事件や投稿動画、立てこもり事件がトップニュースになっていたが、そのほうが価値があると判断したのか、首相がらみの政治スキャンダルをトップニュースでやるのはまずいと忖度(そんたく)したのかは分からないが、テレビの視聴者にこの会見がたいしたものでないという印象を与えたのは確かだろう。
要するにニュースであっても作り手の意図があるわけだから、中身が真実であっても、そのままうのみにすると相手の意図に巻き込まれてしまう。
ニュースで報じられないような極論に接していれば、もう少しニュースに適切な距離や池上氏のいう「健全な猜疑心(さいぎしん)」をもって見られるように思えてならない。
今回、極論の価値について論じ続けてきたが、実は諸事情によって、このコラムでは私の想像による極論は今後書かないことにした(リクエストをこのサイトにしてもらえるのは歓迎だが)。ネットの世界は極論の飛び交う空間だが、時にはそういうものに触れて、脳の老化予防や思考の幅を広げるように努めてほしいというのが著者からの願いである。
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