何回か触れたことがあると思うが、私の本業は高齢者向けの精神科医である。
認知症については、現在の医学では治療ができないので、どちらかというと問題行動などの治療(もちろんできるものとできないものがあるが)を行い、介護について、家族の相談なども受けている。
自分が認知症になった場合などに備え、自分の将来のためにどんな老人ホームがいいのかを調べる人はあまりいないようだ。(c)PaylessImages-123RF
ただし、本来は家族の相談には医療保険が適用されない。そこで、川崎の病院では20年近く、患者を持つ家族を集めて対策について話し合う「家族会」(医者が定期的に参加する家族会はまだほとんどない)をやっているし、青山の山王メディカルセンターでは、どちらかというと富裕層対象に、保険外で介護相談などを行っている。レーガンやサッチャーが認知症になったことでも分かるように、どんなに社会的地位の高い人でもなる病気だが、それ故の悩みもあるからだ。
認知症を防ぐ医学が可能なのか、可能であったとしてそれがいつくらいに実用化されるのかは不明だが、私の見るところ、今の50代は将来自分がボケることは覚悟しておいたほうがいい。テストの結果だけでの判断であるが、85歳まで生きると約半数が認知症になってしまうからだ。
そこであまり嬉しくないことかもしれないが、私の経験から、自分がボケたり、寝たきりになったときのサバイバル術で知っておいてほしいことを書かせていただく。
入るホームなどを事前に調査
57歳の私くらいの世代、あるいは親の介護で苦労した60代の人に話を聞くと、子どもに負担をかけたくないという人がかなり多い。子どもに残す財産が多少減っても有料老人ホームに入るとか、夫婦で介護をするが限界が来たら特別養護老人ホームやグループホームに入るということを考えているのだ。
この発想はきわめて健全なものだと私は考える。せっかくキャリア形成がうまくいき、管理職なり、なんらかのリーダー的な役割を担っている50代くらいの女性が親の介護のために離職する(これは介護離職といわれる)のはあまりにもったいない。子どもを教育した親の立場から見ると、自分の教育がうまくいったのに、自分のためにそれを捨てさせることになり、それは忸怩(じくじ)たる思いだろう。
最近は終活ブームで、生前に墓を買う人も増えたし、自分の葬儀の希望やプランニングなどをかなり早い時期に決めておく人もいる。また、将来の延命を望むかどうかを、中高年のうちから意思表示をすることも珍しくなくなった。
介護については、漠然とホームに入るという人はいるのだが、親のためならともかく、自分の将来のために老人ホームがどんなところであるか、どこがいいのか、どのくらいの金がかかるのかを具体的に知るために見学などに行く人は非常に少ない印象を受ける。
お金の問題がある場合、地方に行けば安くて良質なサービスを提供してくれるところも珍しくない。私の患者さんでも1000人では利かないくらいの数の人が最終的に施設介護を選んだ。20年以上にわたって、とある有料老人ホームのコンサルタント医をしているが、日本の場合はホームの質がピンからキリまであるし、例えば介護者の文化がホームによって違う。経営者の理念が大きいのだろうが、リーダーの優秀なナースや介護士が醸成していった文化が引き継がれることも多い。要するに入居金や月々の支払いが高ければ、建物や食事はその分いいかもしれないが、介護自体については高ければいいとは限らない。だから見学をマメにやっておいたほうがいいのだ。
介護保険で受けられるサービスや、どのように申請するのかも知っておいたほうがいい。40歳以上は給料から介護保険料が天引きされているのに、親が要介護になってから慌てることが多いが、事前の知識は多いに越したことはない。日本の福祉サービスはそんなに悪くないが、みんなが使うと財政が破綻すると考えているのか、行政の側からサービス内容を公示することはない(パンフレットはあるが)。知らないと損なのが公的な介護サービスなのだ。
認知症になる前に後見人を決めておく
さて、自分がボケた場合、ホームに入ることを事前に決めていても、その意思がボケた人の意思ということで認められないことがある。
有料老人ホームの多くが償却制や家賃の前払いの形を取っていて、入居時に一括して払ったお金が5年とか10年で返って来なくなる。そのために子どもの相続財産が減るので、かなりの資産家であっても、この手の高級有料老人ホームに子どもが入れたがらないことが現実に起きているし、私の患者さんでも何人か経験している。
親と同居している子どもは、施設のほうが親もいろいろなサービスを受けられるし、在宅介護では自分が潰れてしまうという自覚もあってホーム入居を検討するのだが、そのきょうだいが反対するケースも珍しくない。
親が認知症などになって意思能力が減弱したり、なくなったりした際に、子どもやその妻が親の意思を代行したり、補助したりできる制度に「成年後見制度」というものがある。親の認知症が進んで、自分の配偶者も高齢というような場合に、医師がその親の意思能力がないという鑑定書や診断書を出して、子どもを後見人として裁判所が選定すれば、後見人である子供は親の財産を代わりに管理できる。また、親が行きたくないと言っても(元気なころはホームに入ると言っていた人でも認知症になると家に執着することがある)老人ホームに入居させることができる。
問題は、特に財産のある家では、後見人が決まらないということだ。
診断書上は後見(意思能力が事実上ない)レベルということで、裁判所が成年後見の対象と認めても、誰を後見人にするかでもめ事が起こる。後見人が親の財産を自由にできる(もちろん私的に使ってはいけないのだが)ということで反対するきょうだいが出てくるからだ。もちろん、第三者である弁護士にお金を払って後見人になってもらうこともできるのだが、それだってきょうだい間のコンセンサスがないと不可能だ。裁判で争って後見人を選ぶということもあるのだが、その間に親の認知症は進み、介護している家族は疲弊する。
こういう事態を避けるために「任意後見」という制度がある。
本人がしっかりしているうちに、自分がボケたり寝たきりになったときに、誰に財産の管理や介護についての判断をしてもらうかなどを前もって契約しておく制度だ。任意後見人が自動的に成年後見人になれるわけではないが、この契約の範囲のことは自分が選んだ任意後見人が引き受けることになる。将来のもめ事を避けるためにも知っておいて、あるいは使っておいて損のない制度と言える。
介護や認知症に対する偏見をとる
今回は、親のためというより、自分の将来のために介護の備えをしようというテーマだが、そのために必要なものに、認知症や介護の偏見を除去することがある。
多くの人が「ボケだけはなりたくない」「ボケて死にたくない」と言うが、私はそれほど認知症を悲惨な病気と考えていない。
一つには、認知症というと徘徊したり、便をこねたり、元の人格が変わって異常な言動を行う人間になるというイメージがあるが、基本的には一種の脳の老化現象だということがある。実際、私が「浴風会」という高齢者専門の総合病院に勤めていた際に、毎年100人ほどの死後の剖検の検討会で見た限り、85歳を過ぎて脳にアルツハイマー型の変化が全くない人は誰もいない。要は程度問題ということだ。
基本的には老化現象だとすると、原則的にはおとなしくなる病気なのだ。おそらくは異常行動型の認知症は全体の1割くらいで、逆に引きこもり型のほうが9割くらいのようだ。実際、日本中に400万人も認知症の人がいるとされるのだから、みんなが徘徊するのなら街中は徘徊認知症患者だらけになるが、そう見かけるものではない。要するに人が考えるほどカッコの悪い病気ではないのだ。
そのほか、嫌なことが忘れられるとか、多幸的になる人も多く、周りはともかく、主観的には幸せになる人は珍しくない。
むしろ、歳をとってうつ病になるほうが、厭世的になったり、自分が生きているのが邪魔という罪悪感に苦しめられたり、気分が鬱々として主観的には不幸と言える。歳をとったら、元気がなくなったり、食欲が衰えるのが当たり前と思われて、未治療のために見過ごされていることが多い。
私も、昭和一桁世代の元ホワイトカラーや大卒、元管理職以上など、もともと知的レベルの高かった認知症患者を診ることが多かったが、彼らの病状の進行が意外に速い。
それは頭や体を使わないからだ。仕事以外に趣味がないから、一日をぼーっと過ごすことになりがちだ。会社をやめたら麻雀仲間も離れてしまう。ところが、老化現象である以上、頭であれ、体であれ、使わないと老化の進行が速まってしまう。
そういった場合はデイサービスに行ってくれるといいのだが、こういう人はプライドが高く(認知症はかなり進むまでこの手のプライドは保たれる)参加しようとしない。実際には介護予防のために知的レベルが高い人用のプログラムが用意されていたり、麻雀をやるようなデイサービスも少なくないのだが、知識がないから偏見が強いのだ。
親の介護の際などに、いろいろと見聞して、この手の偏見は拭い去っておきたい。
要介護状態になる前に夫婦間のコンセンサスを
さて、この原稿を書いている際に、小室哲哉さんが、妻の介護中に看護士と不倫をしたという疑惑が報じられ、引退声明を発表するに至った。
私がとやかく言える立場にないが、私の高齢者専門の精神科医の経験から言えることは、介護を続けるうえで、心の支えになってくれる人が必要だということだ。そういう人を持たないで、自分で抱え込んでいたり、自分で思い詰めていくうちに、介護うつになったり、最悪、自殺や心中、介護殺人にまでつながってしまう。共倒れを避けるためにも、人に、特に精神的に頼ることには大きな意味がある。
厄介なのは、前述のような理由で、きょうだいですらあてにできないことは珍しくないことだ。
介護保険が始まって今年で18年になるが、介護保険の始まる10年以上前から高齢者の臨床に携わっていた立場から言わせてもらうと、この間にケアマネジャーさんも訪問看護師さんもあるいはヘルパーさんもずいぶん経験を積まれて、こちらから見ても教えを乞いたいくらいの優秀な人、介護の実際が分かっている人がかなりの数まで増えてきている。
実際、介護者の多くは、この手の介護関係者に相談したり、心理的なサポートを受けて、つらい介護を乗り切っている。
ただ、この手の頼りになるスタッフのほとんどが女性であるという問題がある。ケアマネジャー、訪問看護師、ヘルパーなどは時代が変わっても、女性が圧倒的に多いという事実はそう変わらない。高齢の介護者の場合、恋愛関係になるということは、私の知る限りではそう多くないが、心が通じ合う関係になるケースは少なくない。
介護を受ける側が認知症の場合、夫が不貞をしているという嫉妬妄想に発展することもある。
子どもの妊娠中に不倫をするというのは言語道断だが、共同作業の成果である子作りと違って、介護を受けるようになるのは、通常は配偶者の責任ではない。そして多くの場合は、その後の性生活はなくなってしまう(日本は元々セックスレスが多いからそう問題にならないのかもしれないが)。
そういう場合に、別のパートナーを持つことがそこまで非難されるべきなのだろうか?
ポーリン・ボスという心理学者は、配偶者が認知症になった場合、体は失われていないが、ある意味、別人になってしまうということで失われる、つまり、「あいまいな喪失」体験であると論じている(拙訳を参照されたい)
もちろん、こういうことこそ夫婦間でコンセンサスを得る必要がある。
認知症や要介護になる前に、その後も介護は要らないからホームに入れてくれとか、介護はお願いするが、別のパートナーは作ってくれてもいいとか、そういうコンセンサスを作る必要をこの事件では痛感させられた(小室さんがそれに当てはまるのかは分からないが)。
夫婦間の合意がなければもちろん「不倫」だが、合意があった場合は、外からとやかく言われる問題でないことだけは確かだろう。
長寿が当たり前になった以上、備えられる限りのことは備えるに越したことがないというのが、長年の高齢者臨床の体験からきた老婆心である。
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