幸せかどうかは各個人の主観が決める(写真:PIXTA)
幸せかどうかは各個人の主観が決める(写真:PIXTA)

 実は、今回が長い連載の最終回となる。

 ずいぶん、好き勝手なことを書かせていただき、私にとっては楽しい連載だっただけに残念であるが、その総括をかねて、これからのサバイバルのために私がいちばん大切だと思う思考法について考えてみたい。

 それは、世の中のほとんどのことは答えは一つでないし、将来、よりよい答えが出てくる(今、正解と思われていることが変わる)ので、なるべく多様な答えを知っておいたり、考え付いた方がいいし、なるべく多様な考えや知識を受け入れた方がいいということである。

 多様な考えや知識を受け入れろというのは、どれか一つに決めるというのとは逆のスタンスである。だから、このコラムで私が提言してきたことも、私自身は当面は(未来永劫というわけではない)正しいと思っていることだが、それを正しいと受け入れてもらうより、いくつかある解答のうちの一つと思ってもらえば十分だし(今のところ、その中でもっとも妥当と思ってもらえれば、こちらの感情としてはうれしいが)、ましてや私のいうことが正しくてほかが間違っていると思ってもらうのは、むしろ危険と思っている。

 これは思考のスタンスであるが、生き方のスタンスでもある。ただ、これとても、絶対に正しいと断言するつもりはない。

 ということで、私のサバイバルのための現時点での思考パターンを紹介したい。

何のために勉強するのか

 この年になると、あえて資格を得たいとか、この知識があった方が成功しやすいとかいうこともあまりなくなってきた。もちろん、これからのライフワークとして映画監督を続けていきたいので、ほかの映画監督の手法を学んだり、原作を探したりというのは勉強と言えるかもしれないが、3回前の号でも話題にしたように、知識習得型の勉強は、だんだんしなくなっているのは確かだ。

 それでも、耳学問も含めて、毎日、いろいろな情報が入ってくるし、文筆業を続けていくために参考資料もかなりの量は目を通している。

 年をとったせいか、私が何のために勉強をするのかで最もスタンスを変えたポイントは、若いころは、たった一つの正解を求めて、あるいは、人に(論争などで)勝つために勉強していたが、今は、いろいろな答えがあるのを知るため、いろいろな人の考えを受け入れるために勉強していると自負している。

 私が専攻している、精神分析の世界では、フロイトの没後、いろいろな学派が勃興し、自分たちが正しいと主張しあっている。私も、若いころは、コフート学派がほかの学派より、患者さんをうまく治せるし、無意識の性欲のようなあるのかないのかわからないものを論じるより、患者に共感的なスタンスで接するのが正しいに決まっていると思っていた。私自身は、今でもコフート的な治療を行っているが、患者さんにも性格やものの考え方があるので、フロイト学派のように家父長的な接し方をした方がいいこともあるのは十分あり得ると思うようになった。どれが正しいかの不毛な議論をするより、結果がよければ、いろいろなやり方があっていいと思えるようになってきたということだ。

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