球界再編前のパ・リーグ、スタンドでは流しそうめんも

 では、その間、何が起きたのかを詳しくお伝えする前に、もう一昔前、私が現役選手だった頃のパ・リーグについて触れておきましょう。

 まず、私がロッテ・オリオンズの入団テストに合格して、諸般の事情で同球団の練習生をしていた頃、本拠地の川崎球場は場末の雰囲気で一杯でした。カビと汗の臭いで目まいがする選手ロッカー、男女が分かれていないトイレに象徴される、時代に取り残されたような施設に、まばらな観衆。その一部は、当時の人気番組、珍プレー好プレーに取り上げられることをもくろみ、スタンドで流しそうめんをしたり、麻雀をしたり、隣接する川崎競輪場での競輪を観ていたりなど、何でもありでした。

 決してスターがいなかったわけではありません。落合博満さんが、2年連続三冠王を取ったのも、村田兆治さんが肘の手術から奇跡のカムバックを果たし、通算200勝を達成したのも、川崎球場時代のロッテ・オリオンズでした。そのほかにも、生涯打率1位のレロン・リーさん、2000本安打達成の有藤道世さんなど、プロ野球の歴史に燦然(さんぜん)と輝くスター選手が織りなすプレーは見応え十分でしたが、観客動員は伸びず。それならばと「テレビじゃ見れない川崎劇場」の自虐的なスローガンを展開したこともありましたが、話題にはなったものの、打開策とはなりませんでした。

 川崎市も、抜本的な球場施設の改善に一貫して消極的な姿勢を取り続けていたため、1992年シーズンから、新球場(現在のZOZOマリンスタジアム)を建設した千葉市に移転し、球団名も、現在の千葉ロッテマリーンズに変更。14年続いた川崎時代に終止符が打たれました。

 当時の、パリーグの悲哀を象徴する球団として、東の横綱がロッテならば、西の横綱は南海でした。本拠地の大阪球場は難波駅に直結という抜群のロケーションだったにも関わらず、スタンドでは、珍プレー好プレー狙いのアクティビティーが展開されていたことに始まり、たそがれ感満載の諸施設など、川崎球場と類似した環境であったことを、南海ホークスOBから、数々の笑い話とともによく聞かせてもらいました。

 そして、南海ホークスはロッテより一足先に、1989年シーズンからオーナーがダイエーに変わり、福岡ダイエー・ホークスとして再出発をしました。

 そのほか阪急も、常に優勝争いに絡む名門チームでしたが、人気は上がらず、1988年シーズンを最後にオリックスに身売りされました。フォーブス誌の世界長者番付で、6度にわたって世界一に輝いた堤義明氏率いる西武ライオンズは、その資金力で常勝軍団を構築はしましたが、人気はセリーグの下位球団と比べてもはるかに及びませんでした。

 日本ハムは、その本拠地である東京ドームが、日本初のドーム球場という観光スポットとして大人気となるなか、巨人戦はチケットの入手が困難という理由で、一時は観客動員を大きく伸ばしましたが、日本ハムのファンに転じる来場客は少なく、その後の人気は昔と同じく低空飛行を続けました。このため、有力アマチュア選手は希望球団を聞かれると「在京セ」と答えるのが定番でした。