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スポーツをしたかったのではなかったか

 なぜか?

 それをやったら自分自身の信条に背くことになると考えていたからだと思う。スポーツをやるのに、人を殴る必要はどこにもない。私がやりたかったのはスポーツであって、暴力を伴う「野蛮なもの」ではないと確信を持っていた。それが私自身の誇りであり抑止力だったと思う。

 またもうひとつ大事な感覚を言えば、監督や先輩や後輩というものは、「役割の違いであって、立場の上下ではない」と考えていたことだ。生意気なことだが、彼らが偉いとは思っていなかった。尊敬や敬意を欠いていた……ということではない。

 その立場が偉いわけではなく、指導の内容に感謝していたのだ。もちろん自分自身も「特別だ……」などとは考えていない。たとえ野球は下手でも、私のそれは、賢明な考え方だったと今も思っている。

 スポーツにおける暴力を、仕組みやシステム、ガバナンスで止めるためには、暴言を覚悟で言えば、やられたら同量の暴力で相手に報復できるというルールを作れば、かなり有効なものになるだろう。しかし、それでは野蛮すぎるし、悲しすぎる。結果的には、暴力を肯定することになってしまう。それではスポーツがスポーツではなくなってしまう。もちろんこれは許されることではない。

 では、どうすれば暴力はなくなるのか? 時間はかかるが、これは教育以外にないだろう。どんなことがあっても暴力に訴えることは、自分に負けることだという教え。これが上手く自分の中に宿れば、暴力という誘惑に負けないで済む。これを教えることが、指導者や先輩の最大の使命なのだが、勝利優先のあまり自身でその禁を破っていたのでは、日本のスポーツは一向に良くならない。

 そしてその指導者や先輩をマネするように同じことをしている選手も、いずれはその蛮行が原因で自分のキャリアを棒に振ることになるのだ。

 「貴ノ岩、お前もか」である。

 スポーツとは何か? それを考えなければ、暴力抑止への答えは見えてこない。

 勝利至上主義が悪いわけではない。問題は、何のために勝つのかという目的と方法論だ。2020年東京五輪・パラリンピックには、さまざまな期待が高まっているが、これを契機にレガシーとして伝えるべきは、暴力のない健全なスポーツ環境だろう。

 是非とも、それを誇れる日本のスポーツであって欲しい。