スポーツは手段であって目的ではない

 とにかく飽きることのない展示の数々。そうした逸品で昔を回顧するのはスポーツ好きにとって珠玉の時間だが、本企画展がどうしても伝えたいメッセージがもう一つある。

 「近代日本と慶應スポーツ」とうたわれたタイトルの副題に、「体育の目的を忘るゝ勿れ」と添えられているのだ。

 それは明治26年に福沢諭吉が「時事新報」の社説に寄せた論説の表題である。福沢は当時のスポーツ界のありさまを嘆き、警鐘を鳴らしているのだ。会場ではその全文が紹介されているが、ここではその一部を取り上げておこう。

≪前略≫

 そもそも人生に体育の必要なるは何故なるかと尋ねるに、身体を錬磨して無病壮健ならしむれば随(したが)って精神もまた活発爽快なるべきは自然の法則にして、身心ともに健全なる者はよく社会万般の難きを冒して独立の生活を為すことを得るの利あるがためのみ。

≪中略≫

 しかるに書生の輩が体育を口実として漫(みだ)りに遊戯に耽(ふけ)り学業を怠り、あまつさえ肉体の強壮なるに任せてありとあらゆる不養生を行い不品行を働き、ひとり得々たるが如きに至りては、実に言語道断の次第と云わざるを得ず。

≪後略≫

 ひと言でいえば、体育(スポーツ)は手段であって目的ではないということだ。慶應義塾の目的は気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、全社会の先導者たらんことを欲するものなりと明確にうたわれている。スポーツもそのための手段であるのだ。

 気が付けば、話が随分堅苦しくなってしまったが、スポーツに携わる者が目指すべきは「文武双全」(小泉信三の言)であり、スポーツを通じて気品を修得することにある。

 例えば連日報じられている大相撲の問題が残念に思えるのは、理由の如何にかかわらず、事の解決を暴力に訴えてしまったことだろう。福沢の言葉を借りれば「肉体の強壮なるに任せて不品行を働き」である。スポーツで鍛えた体力や腕力がそれ自体目的として使われた時、それもまた「体育の目的を忘るゝ勿れ」である。

 有難いことに今はスポーツを生業(なりわい)にできる時代だ。野球、ゴルフ、テニス、サッカー、バスケットボール、大相撲、等々、プロとしての活動がかなう。プロはもちろん勝つことを最大の使命としてやっている。職業がスポーツ選手であり、スポーツそのものが目的だ。福沢の論説は学生への苦言であって、プロを想定したものではない。ならば、この時代に福沢は何と言うのだろうか?

 それは極めて残念なことだが、起こった事実が教えてくれる。プロは「誰よりも自身を律し品格を有す独立の輩であれ」ということだろう。もしそれができなければ、プロは自身の立場を一瞬のうちに失うことになるのだ。

 貴重なのは物ではなくそこに至る精神。独立した個人の確立だ。それこそが歴史的な展示物が教えてくれるスポーツの教訓である。