欧米視察でスポーツの重要性に注目した福沢諭吉

 なぜ慶應義塾においてこれほどスポーツ的な環境が充実したかと言えば、それは創始者である福沢諭吉の思想と彼の医科学的な知見がもたらしたと言えるだろう。福沢諭吉が書いた「身体健康精神活発」という書も今回展示されているが、「健康」という言葉は大坂適塾の緒方洪庵が初めて使い、それを広めたのが福沢諭吉だと言われている。

 「先ず獣身(じゅうしん)を成して而(しこう)して後に人心を養う」という言葉は「福翁自伝」の一説だが、この考え方に代表されるように福沢諭吉は体育教育の重要性にいち早く注目した人物でもあった。アメリカやイギリスの学校教育を現地で実際に見てきたことも、スポーツを重視する慶應義塾の校風に大きな影響を与えたのだろう。

 今回の企画展示では、こうした慶應義塾の塾生(学生)の活躍記録や塾出身者が残した貴重な資料などが所狭しと飾られている。

 明治36年に行われた野球の「第1回早慶戦」。この時に早稲田から届いた「挑戦状」やそれに返答した慶應からの「返信」も展示されている。戦った両軍選手の写真も、鮮明なものが残っている。

 明治時代の各部の海外遠征の写真も当時の様子をうかがわせる。第二次世界大戦の戦前、戦中、戦後の資料(写真や手紙など)は、スポーツを越えて当時の若者の生き方を伝える歴史的遺品と言えるだろう。

 近年のものでは、72年ミュンヘン五輪男子バレーボールで金メダルを獲った松平康隆監督が戦術などを書き残した研究記録や、野球部を2度率いた前田祐吉監督が自らの野球観をつづったノートも展示されている。松平は当時から熱心に「データ」を研究し、前田は旧態依然とした野球界の習慣に疑問を感じていた。いずれも先見の人であることが資料から分かる。

 「練習ハ不可能ヲ可能ニス」と書いたのは、テニスの選手としても活躍した小泉信三だが、小泉塾長の功績を伝える資料も数多く展示されている。小泉信三は戦後、皇太子殿下(今上天皇)の御教育参与として尽力し、文筆活動においても日本のあるべき姿を示した。