全米オープン決勝で主審に抗議する女王セリーナ・ウィリアムズ選手。感情をコントロールできずに自滅した(写真:UPI/アフロ)
今週は、女子テニス、大坂なおみ選手(日清食品)の話題で沸騰している。それもそのはず、あの女王セリーナ・ウィリアムズ(米国)を全米オープン決勝で破って日本人初の快挙をやってのけたのだから、これほどうれしく誇らしいことはない。
今年3月に彼女が米カリフォルニア州インディアンウェルズで行われた「BNPパリバ・オープン」で優勝した時に、当コラムで彼女を取り上げたが、あの時よりもさらに進化した大坂なおみがいた。
優勝の要因を父親のレオナルドさんは、去年12月から指導を受けているドイツ人コーチのサーシャ・バイン氏との出会いを挙げているが、3月の原稿でサーシャ・コーチの指導法について書いているので、ここでは簡単に触れるだけにする。サーシャ・コーチが大坂選手に求めたことは、「思い切り打とうとしなくていい」と言うことであり、今回のグランドスラム(世界四大大会)優勝でもそのプレースタイルが見事に機能していた。
「強く打つのではなく、ゆったりと構えて相手を見ることができた」は、インディアンウェルズで優勝した時の大坂のコメントだが、今回のテニスもそれを上回る冷静さと的確な判断と要所での忍耐強さでセリーナを圧倒した。それはパワーでねじ伏せるような戦い方ではなく、とても知的なテニスだった。
卓越したゲームマネジメントやスピーチのこと(今回も素晴らしかった)や、優勝を決めた直後にバナナを食べていたこと(栄養補給)や荒れた試合展開の中でも冷静さを保ったこと(集中力)など、触れたいテーマがたくさんあるが、彼女の素晴らしさについての言及は他の媒体にお任せして、ここでは自滅したセリーナ・ウィリアムズの決勝戦での行状について考えたいと思う。
いつも乗り降りする東急池上線の駅にこんな文言が書かれたポスターが貼ってある。
「つい、カッとなった。人生、ガラッと変わった。」
主審の下した判定に血相を変えて反論し続けるセリーナを見ながら、このポスターのフレーズが頭に浮かんだ。もちろんこのポスターは、テニスに関するものではない。鉄道係員に対する暴力を抑止するためのものだ。せっかくだから書き添えておけば、2016年度における鉄道係員に対する暴力行為は全国で712件あったそうだ。たった一度の暴力が、本人の人生はもちろん家族の人生も大きく変えることになるとそのポスターは訴えている。
ごめんなさい。もちろんセリーナに暴力行為があったわけではない。言いたいことは、彼女がカッとなってしまったということだ。
念のため状況を説明しておこう。セリーナが切れてしまったそもそものきっかけは、スタンドにいたコーチからの「コーチング」だった。グランドスラム大会では、コートサイドにいるコーチからの指示やアドバイスが禁止されている。
イラつきラケット叩き壊す
それは第2セット、第2ゲームが終わった時のことだった。テレビでもしっかり映っていたが、コーチが手を使ってプレーに対するアドバイスを送っていたのだ。それを見た主審が、セリーナに注意(警告)を促した。
するとセリーナは、「私はそれを見ていない」と猛抗議したのだ。確かにセリーナがそれを見たのか見なかったのかは分からないが、コーチがセリーナと目線を合わさずにそうしたポーズを繰り出すのも不自然だ。もし本当にセリーナが見ていなければ不運なことだが、同じチーム、セリーナ陣営が見せたアクションという意味では、彼女が注意されても仕方がないだろう。
この時、テレビの解説を務めていた松岡修造氏は、その手の動きについて断定はできないが「テニスをやってきた人なら、ボディーへのリターン、前後の揺さぶりを意味しているジェスチャーに見える」と的確な解説をしていた。しかし、ここではまだ警告の段階で、彼女がポイントを失うことはない。
セリーナがさらに暴走してしまったのは、この後のことだ。ゲームカウント3対1とリードしていながらの第5ゲーム、サービスゲームを落としたセリーナは直後にコートにラケットを叩きつけてこれを破壊してしまったのだ。このラフプレー(ラケットの乱用)で2度目の警告を受けたセリーナは、自動的に1ポイントを失い、続く第6ゲームは0-15からスタートすることになった。
こうなるともうセリーナの怒りは治まらなかった。第6ゲームをストレートで落とし、第7ゲームも大坂にブレークされると戻ってきたベンチで主審への猛抗議が再び始まった。ここではついに言ってはいけないことを口にしてしまった。
「私からポイントを盗んだ。謝って。泥棒」などと、感情のままに主審に暴言を吐いたというのだ。この発言への代償(ペナルティー)は大きかった。ここまでセットカウント3-4だったが、3回目の警告(言葉の乱用)で今度はまるまる1ゲームを失い3-5と大坂がリードを広げる展開になってしまったのだ。
試合はすっかり壊れてしまい、続く第10ゲームをキープした大坂がセットカウント2-0のストレートでグランドスラムの栄冠を手にした。
大荒れの試合が示唆する教訓
なぜ私が突然、駅のポスターを思い出したかは、もうお分かりだろう。その怒りを抑えられなければ、グランドスラムのタイトルも失うのだ。いや、普通に戦ってもこの日の大坂さんは、セリーナを破ったと私は思っているが……。ただ、ここは女王への敬意としてそう言っておこう。
この試合でセリーナに起こったことは、私たちへの教訓だ。彼女からすれば、不本意な判定だったに違いない。言葉通り「コーチング」を見ていなかったのかもしれない。
しかし……だ。その後、抗議に明け暮れてゲームを進めることが彼女のためになったかと言えば、そのエネルギーは明らかに逆の方向に働いてしまった。まだ、どこかで引き返せるポイントがあったはずだ。冷静に自分のやるべきことに集中することもできたはずだ。いかなる理由であれ、それを逃してしまったのは彼女自身の責任だ。
私たちの日常において、グランドスラム優勝ほどの歓喜が訪れることは残念ながらそう滅多にない。ところが、セリーナが怒ったようなアクシデントや不運はこれまた残念なことに結構ある。私たちが備えておくべきは、考えておくべきは、そうした怒りをどう抑えるかということだろう。
ストレスの多い現代社会。怒りのマネジメントは、テニスプレーヤーだけの問題ではない。これはむしろ私たち自身の課題だ。
ポスターには、「もしカッとなってしまったら、深呼吸。一旦、心を落ち着かせましょう。」とも書いてある。
セリーナほどの選手でもそうであったように、カッとなってしまったら、もう戦う相手が違ってしまう。スポーツにおいては、こみ上げる怒りが大きな回復力をもたらしたり、闘争心を再燃させるエネルギーになったりすることもあるが、ほとんどの場合、セリーナのように失敗する。
とにかく冷静に、冷静に、冷静に……。そして怒りの先の最悪の顛末を考える。そこには、何ひとつ得になることはない。私たちが目の前の怒りをマネジメントするには、詰まるところ、それしかないのだ。
(=敬称略)
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