高校球児の髪型は丸刈りが「伝統」だ(写真:PIXTA)
2018年8月12日は、期せずして「タイブレークの日」になった。夏の甲子園では、愛媛県代表の済美高校と石川県代表の星稜高校が、壮絶なタイブレーク(済美が13 対11で逆転サヨナラ勝ち)を演じ、その日の夜には、ソフトボール世界選手権決勝(ZOZOマリンスタジアム)で日本と米国がこれまた手に汗握るタイブレークを戦い、米国がサヨナラ勝ちを収めた。
いずれも観る者を釘付けにするスリリングなゲームだった。言えば、これがタイブレークの醍醐味という試合だった。その導入も正解だったと思い知らされるような熱戦だった。早速メディアもこの2試合を受けて、「タイブレークが生んだドラマ」と好意的な論調で報じた。
高校野球やソフトボールのタイブレークとは延長線を早く決着させるために、ランナーを置いた状態で回を始める特別ルールだ。このシステムの導入には依然として懐疑的なファンもいるだろうが、白熱の試合を観た人たちの多くは、「タイブレークも悪くない」との感想を持ったのではないだろうか。
タイブレーク導入の狙いについては、高校野球にもソフトボールにも共通するものがあるが、本稿では高校野球に焦点を当てて話を進めたいと思う。ただ、最初に申し上げておくが、ここでタイブレークそのものの是非を論じるつもりはない。なぜならもう導入が決定しているシステムであり、前述のように、その運用も始まっているからだ。
ここで私が指摘したいのは「タイブレークの導入」が「丸刈りの高校球児を減らす」という方向に導くだろうということだ。突拍子もないことを言い出しているのは承知しているが、その脈略を丁寧に説明していきたいと思う。
実は、タイブレークの導入は、この春の甲子園からすでに始まっていた。しかし、春の選抜大会では1試合もタイブレークに持ち込まれる試合がなかった。ゆえに甲子園で初めてタイブレークが実施されたのは、今大会2日目(8月6日)の第4試合、佐久長聖高校(長野県代表)対旭川大高校(北北海道代表)の一戦だった。この時は、5対4で佐久長聖が勝っている。
そして大会2回目のタイブレークとなったのが、前述の済美対星稜の試合だ。延長12回まで戦って9対9の同点。高校野球では、ここから(12回まで戦って同点の場合)タイブレークに突入する。
延長13回の打撃は、無死ランナー1塁2塁から始め、打撃順は12回攻撃時の順番を引き継ぎゲームを進める。なお決勝戦でタイブレークは採用されず、15回打ち切り再試合となる(再試合ではタイブレークを適用)。
13回表、星稜がまず2点を取る。これで星稜が圧倒的に有利かと思ったら、ドラマはその裏に待っていた。済美が無死満塁のチャンスをつくると1番の矢野功一郎選手(3年)がライトポールを直撃する逆転サヨナラ満塁ホームランを放って13対11で劇的な幕切れを迎えた。ゲームの詳細を追いたい素晴らしい激闘だったが、この試合についてはここまでにしておこう。
「高校野球が高校野球でなくなる」との批判
考えたいのは、タイブレークの導入が「丸刈りの球児を減らす」という流れだ。
タイブレークの導入に異を唱える声の主流は、「高校野球が高校野球でなくなってしまう」というものだろう。どこまでも戦って決着をつける。それが最後の夏を迎える球児たちが望む戦いのはずだ。その緊迫した延長戦にこそ、高校野球の神髄がある。人為的にランナーを置いて戦うのは、高校野球の精神に反するのではないか?
そうした主張は十分に理解できるが、それでもタイブレークを導入した理由は、選手の疲労を考えて、とりわけ投手にかかる負担をいかに軽減するかという発想から決まった採用だ。延長18回でも決着がつかず、再試合を迎える。それは観る者にとっては最高のゲームだが、プレーする選手たちにとっては大きなダメージを残す。将来のある球児たちにそこまでの負荷をかけていいのか。そうした議論を経て導入されることになったのがタイブレークだ。そこにある精神は「選手個人を守る」という考え方だ。
高校野球には、今も良い意味での全体主義が働いている。高校球児は、「伝統の高校野球という文化」を守るために一丸となって戦っているのだ。勝利は学校の勝利であり、代表する地域の勝利だ。それは選手だけの誇りではなく、在校生の誇りであり、野球部OBを含めた卒業生みんなの喜びであり、地域の誇りだ。そうした考え方の上に高校野球があるので、たとえ延長になってもどこまでも戦い続けることが高校球児の使命であり美学でもあった。つまり個人よりも「高校野球という伝統」や学校や地域が大事なものとして存在していたのだ。だから彼らは、肘や肩を痛める心配があっても、どこまでも投げ続けることを選んだ。あるいは強いられてきた。
丸刈りとは、個人を主張しない髪型だ。ちょっと乱暴な言い方かもしれないが、丸刈りとは高校野球に身を捧げ、チームや地域を最優先に戦うことを髪型で表しているのだ。
もちろん帽子を被りやすかったり、手入れが楽だったり、利便性という面でも丸刈りには大いに意味を見出すことはできるが、丸刈りにしたら野球が上手くなったり、勝てるようになったりするのか、と言えばそんなことはない。それならば、社会人野球もプロ野球もみんな丸刈りで野球をやっているはずだ。丸刈りで野球をやる意味は、野球以外の目的にあるのだ。
もちろん「丸刈り」という髪型そのものが悪いわけではない。プロ野球でも丸刈りが似合う選手がいる。広島カープの鈴木誠也選手や読売巨人軍の阿部慎之助選手、小林誠司選手の丸刈りからは、彼らの野球にかける思いが伝わってくる。野球をやっていなくても、若い人たちの間では「オシャレ坊主」という呼び方で丸刈りがファッションとして認められている。
また、体験的に言えるのは、高校時代の丸刈りには、ある種の「カタルシス」があるような気がする。その髪型をすることによって「野球に自己を解放する!?」。少なくとも仲間同士の連帯感やチームに対する忠誠心は深まったりする。
しかし、そうした意識の裏返しで「丸刈り」が「野球部だから勉強をしなくてもいい」という免罪符のような意味(誤解)になったりしていることもあるだろう。私が受験をして慶應大学に進んだのも髪型と大いに関係がある。多くの他大学が丸刈りで大学野球をやっている時代に慶應は髪を伸ばして野球をやっていた。そこに個人を尊重する自由を感じたからだ(しかし、残念ながら野球部には、前時代的な蛮行が様々残っていた…笑)。
ただ、何度も言うが「丸刈り」が悪いわけではない。私が昔から感じてきた気持ち悪さは、それが当たり前のように強要されているということにある。そしてさらに言えば、私がスポーツライターという職にこだわっている理由は、スポーツ界から少しでも「不合理」と「理不尽」をなくしたいからだ。
伝統より体調を重視する流れ
タイブレークの導入は、「伝統的な高校野球を守る」という観点から、「選手個人をどう守るか」という視点に立ったことを意味している。このことの功罪はもちろんあるだろう。しかし、大会100回目の節目で選手の身体をどう守るかという方向に舵が切られたことを私は評価したい。
今回、北神奈川代表の慶應高校と北北海道代表の旭川大高校は、丸刈りではない普通の髪型で甲子園にやってきた。その他のチームでも、スポーツ刈りや短めの髪型でプレーする選手を見た。旭川大高では、丸刈りを禁止しているという。慶應高校も昔から普通の髪型で野球をやっている。そこでは、個人というものが尊重されているのだ。
おそらくタイブレーク導入の功罪は、丸刈りでない選手を輩出する方向に機能することだろう。全員が一丸となって戦う高校野球において、それでも選手個人の存在をしっかり認める。それがタイブレークの精神であり、丸刈りを強要しない高校野球も認めることになる。
タイブレークの導入によって、その意識は今後どんどん高まることになる。よって、丸刈りの高校球児はこれからどんどん減っていくことになる!?
それが歓迎されることなのかどうかは分からないが、私は高校野球がより良い方向に向かい出したことだと思っている。
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