日大のサイドに立って、今回のプレーの意味を考えてみよう。

  • ライバル校の有望な若手を早い時期に叩いておく
  • ラフプレーを通じて、相手に苦手意識や恐怖感を抱かせる
  • 次戦に向けて、相手に報復の念を抱かせる(冷静さを奪う)
  • どんなことをしても勝つんだというチーム内の意識を高める
  • チーム全体の闘争心を煽る

 まだ他にあるだろうか?

 当方には、このくらいしか思いつかない…。

 しかし、たとえ上記のような効果があったとしてもその代償は大きすぎる。それは、今回の報道を見れば明らかなことだろう。どう寛容に理解しても、まったく見合うものではなく、許されることではないのだ。

 その後の経緯を整理しよう。15日、日大から関学大に抗議文に対する回答書が届いた。関学大は17日に記者会見を開きこの内容を公開したが、悪質なタックルが行われた具体的な経緯や見解がないとして再回答を求めた。また日大の指導者から直接の謝罪がないことに、会見に臨んだ小野ディレクターと鳥内監督は、さらなる不満と不信感を募らせた。上記会見を受けて、日大は近日中に直接謝罪することを発表したが、「こんな愚行がなぜ行われたのか?」という疑念が晴れない限り、この問題が解決したとは言えないだろう。問われているのは、「スポーツとは、どうあるべきか」ということへの答えだ。

暮らしを豊かにする福沢諭吉のスポーツ論

 これは以前にも紹介したが、明治26年(1893年)に福澤諭吉が当時の新聞に「体育の目的を忘るゝ勿れ」という評論を寄せている。その内容を要約すれば「スポーツは手段であって目的ではない」と主張している。

  • 健康になるため
  • 仲間を作るため
  • 気分を爽快にして勉強をするため
  • 颯爽と仕事をするため
  • 丈夫な身体を持って社会に貢献するため

 あくまでもスポーツは私たちの日常を豊かにするための手段であって、何かを実現するために極めて有効なものだ…と、福澤は明治時代にもうすでにスポーツの機能を賛美している。そして学業を疎かにしスポーツだけに没頭する勝利至上主義を嘆いている。

 つまり大学時代で言えば、社会でも通用するスポーツマンシップを学ぶための手段としてスポーツに取り組んでいるはずなのに、勝つことを目的に手段を選ばない行為をやってしまったら、それはもはやスポーツとは言えない。

 パソコンに保存している大好きなシーン(映像)がある。

 第87回(2008年)全国高校サッカー。

 兵庫県・滝川二高が鹿児島県・城西高に敗れた後のロッカールームでのことだ。城西の大迫勇也選手に芸術的な2ゴールを決められて、滝川二高の中西隆裕キャプテンが泣きじゃくりながら叫んでいる。

 「大迫半端ないって。アイツ半端ないって。後ろ向きのボール、めっちゃトラップするもん。そんなの出来ひんやん普通」

 これで生まれた名言が「大迫半端ない」であり、この言葉をプリントしたTシャツもすぐに売られた。

 そして、そんな中西君に向かって栫(かこい)裕保監督が笑顔で言うのだ。

 「あれは凄かった。俺、握手してもらったぞ」

 このシーンが大好きなのは、中西君にも栫監督にも戦った相手へのリスペクトがあるからだ。

 スポーツは、その精神の上に成り立っている。

 今回の日大の一件が悲しすぎるのは、アメリカンフットボールというスポーツにも、相手に対しても、リスペクトがないからだ。