平昌五輪の余韻の中で見ていたので、設楽悠太選手(26歳 本田技研工業)には失礼だが、こんな記録が生まれるとは予想もしていなかった。やっぱり誰かの活躍が、他の人にも伝播するのだ。スポーツではよくあることだ。
2月25日に行われた東京マラソンで、設楽選手がこれまでの日本記録を更新して1億円を獲得したのだ。
2月25日に行われた東京マラソンで、設楽悠太選手(26歳 本田技研工業)が日本記録を更新。褒賞金1億円を獲得した。(写真=中西祐介/アフロスポーツ)
2020年東京五輪代表選考会「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」への出場権が懸かった東京マラソン。これまでの日本記録は、2002年10月に高岡寿成がマークした2時間6分16秒だった。設楽選手は2時間6分11秒で走り、日本実業団陸上競技連合から新記録をマークした選手に贈られる褒賞金1億円をゲットした。
レース後、設楽選手はインタビューに答えて言った。
「今回は記録よりも勝つことを意識していたので、総合1位を取ることはできませんでしたが(総合2位)、日本人トップを取ることができて、うれしいです。前は見えていたんですが、あれが僕の限界でした。そんなに正直(記録は)狙っていなかったんですが、2時間9分以内を目標にやっていたので、とりあえず目標を達成することができて、よかったです」
記録は狙っていなかった。だとすれば、余計に見えない何かが働いていたような気がする。これを説明するのは難しいのだが、破綻を覚悟でできるだけ論理的に話を進めていこう。
五輪の女子メダリストに感じた“良き伝播”
まずは、今回の五輪で大活躍だった女子のカーリングチームを思い出していただきたい。休憩時間に仲良くお菓子や果物を食べる「もぐもぐタイム」が注目され、「そだね~」という北海道弁が可愛いと日本中を盛り上げてくれた「カー女」のみなさんだが、私がもう一つ注目したのは彼女たちが発する声のトーンが極めて似ていることだった。
吉田知那美選手と吉田夕梨花選手は、姉妹なので声が似ているのも当たり前かもしれないが、鈴木夕湖選手と藤沢五月選手が出す声も北海道弁も手伝ってみんな同じように聞こえてくるのだ。これは彼女たちが、日本カーリング界初の銅メダルを獲得したことと無縁ではないと私は思っている。
もう一つ似た例を挙げるならば、スピードスケート女子パシュートで見事金メダルを取った日本チームのメンバーとその滑走スタイルだ。ここにも高木那奈選手と高木美帆選手という姉妹がいたのは偶然ではないだろう。日本チームはこの2人を核として佐藤綾乃選手と菊池彩花選手を入れ替えながら抜群の連携で他チームを寄せ付けなかった。
彼女たちの勝利は、それぞれの世界レベルのスケーティングによってもたらされたものだが、他国がまったく真似できなかったのは、レースに出場した3人が誰と滑っても前後の幅90センチと言われた超接近の隊列を維持して滑ることができたことにある。
カーリングとパシュートで選手たちがやっていることをひと言でいえば、あまりにも簡単過ぎる表現かもしれないが、それは「息が合っている」ということだ。
ただ、この「息が合っている」は、実は奥が深い。
以前、この分野(呼吸)を研究している医学博士に取材したことがあるが、長い間一緒に練習してそのレベルが上がってくると、実際に呼吸のタイミングが合ってくる。そればかりか、様々な動作が似てきたり、ポジティブな考え方が伝播したり、とにかくお互いに良い影響力を与え合うようになるのだ。
こうした良き伝播を「エントレインメント」(同調 同調化)と言う。
設楽選手も五輪の高揚感がエネルギーに
これは身近な人の良い行動が周囲の人に連動していく作用のことだが、メンタルトレーニングの世界では、良いイメージやポジティブな考え方が好結果を招くことは、かなり前から言われている。スポーツ界では、もはや常識と言っていいほど浸透している。
そろそろ話を設楽選手に戻そう。彼がどれだけ平昌五輪を見ていたかは知らない。きっとMGCの出場権が懸かったレースの前だから、自分のことに集中していたはずだ。
それでも金メダルに輝いた羽生選手の復活劇や小平奈緒選手の激走くらいは知っていたことだろう。もしかしたらカーリングやパシュートの活躍も見ていたかもしれない。もし、いずれも見ていなかったとしても、日本中に漂う五輪の高揚感のようなものの中に身を置いていたことは間違いないだろう。
新聞報道によると、設楽選手はレース前日のスピードスケート、女子マススタートを見ていたらしい。そこで2個目の金メダルを獲得した高木那奈選手のレースに興奮したと語っている。
「金メダル2個はすごい。僕もあんなふうに世界と戦いたい」
その記事を読んで、「やっぱり」と思った。そうしたものが何かしら影響するのが、私たちの心であり体なのだ。それが設楽選手の頑張りにつながった、とまで言えるかどうかは分からないが、こうした好記録(日本新記録)が生まれてもおかしくない環境にあった、とは言えるだろう。
日本陸連の瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダーは、設楽選手の快走を受けて言った。
「やりました。本当におめでとう。(新記録は)16年ぶりですから。こんなにおめでたい話はないですね。これで一気に東京オリンピックに弾みがつきました。この記録をみんなが目標にしますから。今日はみなさんの応援のおかげで、みんな記録がよかった。2時間6分台が2人(井上大仁選手も2時間6分54秒)も出たことは(今まで)ないわけですから、歴史的偉業を成し遂げたんです。すごいことです」
この記録をみんなが目標にしますから。
これもまた、スポーツ界が活性する大きな要因だ。
私たちは、周囲の人の言動に知らず知らずのうちに影響を受けている。プロ野球選手がヒーローインタビューで「○○さんが良いところで打ってくれたので、僕もその流れで打つことができました」と言うのもよく耳にする。これも、呼吸の観点で言えば「エントレインメント」の一環だろう。
設楽選手の素晴らしい快走が、これを見た人たちに良い影響を及ぼしていく。
頑張っている人を見て、自分も同じように頑張りたいと思う。そこには心の働きだけでなく、私たちを活躍させてくれる生理的な側面もあるようだ。良き友やライバルの存在が、私たちを律して、頑張らせてくれる所以(ゆえん)である。
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