大企業で活躍しながらも、定年退職後はひっそりとしてしまうビジネスパーソンが多い中で、伊藤忠商事、クアルコム、ソフトバンクで情報通信事業に携わった松本徹三氏は、77歳になった今もなお通信事業に関するコンサルティングなどを手掛け、現役時代と変わらぬ忙しさで世界中を飛び回っている。本コラムの3回目では、終身雇用が崩れつつある日本企業において、会社に翻弄されずに有意義なサラリーマン生活を送り、リタイヤ後のビジネスライフにつなげるための“松本流スキル”をお伝えする。
国際会議の合間に、南アフリカのケープタウンにて
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前回は一般企業にお勤めの高齢の方々に向けて若者管理職との関わり方についてお伝えさせて頂いたが、今回は企業で働いている中堅幹部や若手社員の皆さんに会社での立ち回り方についてお伝えしたい。
その前に、私にはまずそういう方々にお聞きしたい質問がある。例えばその人が今、仮に35歳であるとして、仮に85歳で亡くなられるとしたら、「これから50年をどう生きたいか?」あるいは「どう生きることができると思うか?」ということである。
自分が若かった時のことを思い出してみると、実はそんなことはほとんど何も考えていなかった。もし聞かれたら、「自分は不摂生な方だから、そんなに長生きはしませんよ」とはぐらかすか、「仕事を選ばなければ、65歳ぐらいまでは何か仕事があるでしょう」「その後は、ぜいたくさえしなければ、年金で気楽に暮らせるでしょう」とでも答えていただろう。しかし、現在は、状況はもっと厳しそうに思える。
「日本的労働環境は既に死んだ」と考えよう
私の時代には、そこそこの大学か専門学校を卒業して、そこそこの会社に就職できると、将来をそんなに心配することはなかった。就職した会社がそう簡単に倒産するとは思えなかったし、ある程度の歳になればある程度のポジションに就けると思えた。幹部級になれば相当良い生活ができそうだし、そうでなくても労働組合が守ってくれるので、かなりの生活は保障されると思っていた。しかし、現在はもはやそういう状況ではない。
そこそこの企業の正社員になれる可能性は少なくなっており、派遣社員としてその日暮らしをしているうちに、気がついてみると結構いい歳になっており、「このままだと生涯何も良いことは起こりそうにないなあ」と思ってしまう人も少なくない。仮にそこそこの会社の正社員になれたとしても、その会社の縮小や倒産はいつ起こってもおかしくないし、会社はもはや「終身雇用」や「年功序列」で守ってはくれない。そして、老後の頼みの綱となる日本の手厚い年金制度も、いつ破綻するか分らない。
しかし、米国では、そのような状況は、実はずっと早い時点で中産階級を襲っている。父親がデトロイトの自動車メーカーの中堅幹部だった私の知人は、あるエピソードを語ってくれた。30年前、彼が大学に入った歳に、彼は父親からこう伝えられたという。「もう我が家もこれまでのような豊かな暮らしはできないよ。毎週の家族そろっての外食とか、1年に何回もバケーションを楽しむということも、もうなくなるだろう。日本人と競争しなければ車が売れなくなるのだから仕方がない。日本人の後には中国人が来るだろうから、お前たちの時代はもっと厳しくなるぞ」。
日本にも同じことが起こるのは火を見るより明らかだ。どこに自分たちの強さがあるかを見つけ、そこで勝負しない限り、中国の後に続く東南アジア諸国やインドなどの追い上げを受け、多くの仕事が奪われるだろうし、それに加えて、発展途上国の低賃金労働者よりもさらに安く仕事がこなせるロボットやAI(人工知能)にも、これからはどんどん仕事が奪われていくだろう。
これからは常に「開き直る」べし
日本語には「開き直る」という不思議な言葉がある。通常良い意味では使われない言葉だ。私はこれをうまく英語に訳せず、困り果てた経験がある。考えてみると、欧米人などは生まれた時からいつも開き直っているからなのではないだろうか? 一方、日本人は理不尽に責め立てられても、相手の怒りの火に油を注ぐことを恐れて、ただひたすら恐縮している(あるいは、恐縮しているかのようなフリをしている)ことが多い。「開き直る」という言葉は、こうした日本人にしか分らない「特異な言葉」なのかもしれない。
松下幸之助さんが小さな町工場を始めてしばらくたった頃、日本ではGHQ(米軍総司令部)が労働運動を推奨していたこともあり、流行の左翼思想をちょっと聞きかじっただけの若い工員たちに取り囲まれて、賃上げ(全社員への利益の分配)、労働時間の短縮、経営権の共同保有など、言いたい放題の要求を突き付けられた。丁寧に話を聞いていた松下さんも、ついに開き直り、「君らがそこまで言うんやったら、もうええわ。この会社はもうやめます。もういっぺん家内と2人だけで一からやり直すわ」と言ったそうだ。そうすると、当然のことではあるが、工員たちは翌日詫びを入れてきて、全ては元に戻ったという。
ちなみに、創業者型の経営者の方がサラリーマン型の経営者よりも実績を上げるケースが多いのは、彼らにはいつでも「開き直る」用意があるからだ。大きなリスクを伴う決断が必要な時に、サラリーマン型の経営者だと「諸先輩が営々と築き上げてきた会社を自分の代で潰してしまうわけにはいかない」と考えて尻込みする。一方で、創業者型の経営者は自分の直感が何よりも大切と考え、「うまくいかなければ潰れるだけ、自分が創った会社を自分が潰して何が悪い」と開き直ることができる。
ここで私が真っ先に皆さんにお勧めしたいのは、「常に開き直っている」ことだ。その仕事に関する限りは「自分が創業者で自分がワンマンだ」と考える。誰の助けにも頼らず(「最終的に頼れるのは自分自身だけだ」と考え)、常に最悪時の覚悟を決めて、ふてぶてしく生きてみてはどうだろうか。
そして、どんな時でも、暗闇の中に一筋の光を見つけたら、それに賭けていくことだ。仮にいくら失望の連続であっても、諦める必要は毛頭ない。そもそも「諦める」などというぜいたくは、滅多に許されることではないので、これは至極当然のことだとも言える。
いかなる仕事であれ、成功する秘訣の第一は、その仕事の本質を理解し、その本質に対して徹底的に忠実であろうとすることだ。それを理解していない人が、そういう姿勢を批判したり、妨害したりするなら、ちゅうちょすることなく開き直れば良い。それを態度に出せばあまりに刺々しくなるという懸念があるなら、心の中で開き直っていれば良い。
忠誠の対象は「会社」ではなく「仕事」
この連続コラムの第1回でも触れたことだが、私は若い頃から、常に次の様に考えてきたし、今もそう考えている。「仕事には2つの要素しかない。一つは『やるべき事』であり、もう一つは『それをやる人』だ。『会社』とか『組織』とか『予算』とか『見返り』とかいうものは、すべてこの2つの基本要素の周りにある付随物に過ぎない」。
その様に考えて生きてきた私にとっては、「世間で通用する名前を持った会社」「助けてくれる上司」「協力してくれる部下」「活動を可能にする予算」は、すべてとても「有難いもの」だった。ただし、それは、それによって「やるべき事がやれる」から有難かったのであり、それ自体が別に有難かったわけではない。第一、仕事がないのなら、会社も上司も部下も予算もまったく無用の長物でしかない。
しかし、そうは言っても、自分が「やりたい」仕事、「やるべきだと思う」仕事を見出すことは、そんなに簡単ではない。場合によれば、何十年もかかって、やっと「ああ、これだったんだ!」と分かることもある。また、その一方で、会社などに入れば、まず「君にはとりあえずこれをやってもらう」と仕事が振り当てられる。好きであろうと嫌いであろうと、まずはそれをやらねばならないのは当然だ。
会社に入ったということは、「その会社と契約を取り交わした」と考えるべきだと私は思う。採用通知が来たら、先ずは「やったー! 契約が取れた!」と素直に喜ぶべきだ。そして、そのうえで、まずはその契約を完璧に履行するように努力すべきだ。そこで良い仕事ができれば、次の契約交渉は有利に運ぶ。自分のやりたい仕事ができる部署に配置換えをしてもらえるように、交渉することもできるだろう。
「会社に面倒を見てもらっている」と思ったときは辞める時
しかし、絶対に避けるべきは、「会社に使われている」状態に安住することだと私は思う。それは「自分が本当にやりたいと思う仕事」をやっていない証左だからだ。もし本当にやりたい仕事をしているのなら、「会社をうまく使っている」という意識はあっても、「会社に使われている」という意識はないはずだ。「本当にやりたい仕事」「誰かが絶対にやるべきだと思う仕事」をしないままに短い一生を終えるのは、あまりに残念な生き方だと言わざるを得ない。
私は大卒で伊藤忠商事に入社し、34年間勤めてから退社して独立したが、その間「会社の期待に応えられず申し訳ない」と思ったことは度々あっても、「会社にうまく使われている」などと思ったことは一度もない。もっとも「会社をうまく使った」と思えるほどの仕事もできなかったのは残念だった。
私が伊藤忠商事に勤めている間の多くの時間は、新しい仕事を見つけるために費やされたと言っても良いだろう。当初は、新しい仕事を見つけなければ独立採算制の小さな組織を維持できないと思ったからだし、その後も「同じところに留まっていたのでは、猛スピードで後退しているのと同じだ」という強迫観念に駆られることがしばしばあった。その都度チャレンジする様々な仕事が、私にとってそれぞれに面白いものでなければ、とても耐えきれなかっただろう。
米国時代には、日本ではまだ誰も理解してくれる人のいなかったベンチャービジネスとして企業向け超多機能電話機の開発と販売を自ら手がけ、倒産寸前の手ひどい傷を負った。文字通り地獄を見たと言っても良い。それでも何とか最悪のシナリオを切り抜け、恥も外聞も打ち捨てて日本に帰ってきた。その頃の惨めな思いは今でも時折夢に見るし、夢から覚めるといつもホッとする。しかし、その悲惨な経験から得たものは、いつまでも得難い資産として自分の中に残っている。この体験がなかったら、自分はもっと嫌味な人間になっていただろうと思う。
その後、伊藤忠の看板事業の一つだった通信衛星事業の責任者となったが、先行きが全く見通せず、多チャンネルのデジタル放送サービスを自ら手掛けるしか活路はないと思ったので、必死で八方に手を尽くした。その時は、自分の退路を自分で絶った様な気持ちだった。その間の事情を一番よく知っていた元双日社長の西村英俊さんも既に鬼籍に入られた今となっては、もうその創世の歴史を知る人もいないと思うが、現在の衛星放送サービス「スカパー」はその産物だ。
その後、「もうこの会社の中では、自分の力で劇的に新しいことはできそうにない」と見極めをつけて伊藤忠を辞め、確たる将来の見通しもないままに「ジャパン・リンク」という自分の会社を作った。時々恐怖に襲われることもあったが、その都度「最悪時のシナリオ」を考えて、「命までは取られまい」と自分に言い聞かせると、不思議に気持ちが落ち着いた。その時に作った会社をまた復活させて、今もその会社の名前で仕事をしているが、その頃に比べれば、今はまったく比較にならないほど気楽な毎日だ。
このやり方で生き続ければ、老後の心配はいらない
このような私の生き方は、損得勘定の上から言うなら、あまり割のいいものではないかもしれないが、歳を取ってからは見返りがある。とにかく自分の力だけを頼りに、後は時の運に身を委ねるという生き方をしていると、自分がたまたま所属した会社や組織の盛衰も関係ないし、定年といった概念とも無縁だ。会社から得られる待遇を他の人と比べて、恨んだりひがんだりする必要もない。
今は、全くの自由人として、面白い仕事があれば取り組み、面白い仕事がなければのんびりすればいいと思っている。肩肘を張る必要などどこにもない。自分の知識や経験、能力を買ってくれる人がいれば、その分だけ稼ぎになるので、少し贅沢な生活ができる。そういう人がいなければ、死ぬまでの時間を計算して、生活費を少し切り詰めればいいだけだ。
自分の死ぬ間際の仕事がうまくいっていれば、気持ち良く死ねるし、うまくいっていなければ、少し寂しく死ぬ。まあそういうことでいいのではないだろうか。老後の心配などは、いつの時点でもする必要はない。
(連載第4回となる次回は、「『世界の一部である日本』を常に意識すべし」と題して、海外経験を極力増やしていく必要性について語ります。)
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