大企業で活躍しながらも、定年退職後はひっそりとしてしまうビジネスパーソンが多い中で、伊藤忠商事、クアルコム、ソフトバンクで情報通信事業に携わった松本徹三氏は、77歳になった今もなおビジネスに携わり、現役時代と変わらぬ忙しさで世界中を飛び回っている。このコラムでは、この様なユニークな生き方をしている松本氏からのメッセージを、若い頃の同氏の「仕事に対する取り組み方」を示すエピソードも交えながら、5回に分けてお伝えする。
77歳になった今も、私の仕事量は現役時代とほとんど変わらない。並び大名のように会議室に座っている時間や、名誉職的な役割がない分だけ、仕事の密度はかえって濃いかもしれない。
現在の仕事は「課長級」の仕事
通常使っている肩書きは、自分で創ったコンサルタント会社の「社長」や、契約している各社の「シニア・アドバイザー」などだ。関係者との仕事上の会話やメールによる交信の内容は、長年の経験に裏付けされているので、相当高度なものであると自負しているが、“毎日の仕事を進めるリズム感”からみると、昔勤めた商社で言うなら大体「課長級」の感じだ。
私が勤めていた頃の商社では、課長は中小企業の社長の様なもので、常に自分の頭で考えて新しい仕事を作り出していかねばならなかった。上層部を説得さえできれば、大きな資金を動かせるという点でも、投資家や銀行を説得すれば大きな仕事ができる新興企業と同じだった。だから、そういう仕事には大きな誇りを持っていたし、「もっと上の地位に上がりたい」とは、格別思わなかった。
私は、現在、専属の秘書は使っておらず、アポイントの取得から出張の段取りまで、スマートフォン(スマホ)をベースに全部自分一人でやっているし、会社の経理処理まで自分でやることが多いので、効率が悪いといえば悪いが、それはそれで楽しいとも言える。大戦略を考えているだけでは、歳をとれば段々とぼけが出てくるだろうが、細かい仕事まで自分でしていると、ぼける余裕はない。
「やるべきこと」と「それをやる人」、仕事の要素は2つのみ
それにしても、普通なら「悠々自適」とうそぶいていればよい歳なのに、何故いつまでも気ぜわしく働き続けるのかと聞かれれば、「結局は仕事が好きだからなんでしょうね」と言うしかない。しかし、これは、たまたま自分がやってきた仕事が情報通信の分野だったからでもあるだろう。
この分野は、技術革新が極めて激しいので、新しい技術の話を聞けば、それがどういうものか知りたくなるし、知れば知ったで、その使い方を考えないではいられなくなる。「こんなサービスがあればなあ」と思えば、「待てよ、あの技術とあの技術を組み合わせれば、意外に簡単に実現できるかも」などと、つい思ってしまう。つまり、常に「興味」と「好奇心」が刺激されるという、格別に恵まれた立場にあるという事だ。
私は以前から「仕事には二つの要素しかない」と考えている。一つは「やるべきこと」であり、もう一つは「それをやる人」だ。
「会社」とか、「組織」とか、「予算」とか、「見返り」とかいうものは、すべてこの2つの「基本要素」の周りの付随物に過ぎない。だから、全ての出発点は、「自分という人間」が、何かを「したい」とか、「しなくてはならない」とか思うことだ。逆に言えば、そういうものがある限りは、仕事はやめられない。
もちろん、「何も自分がやらなくても誰かがやってくれるだろう」と思うことはある。「自分が出しゃばれば、若い人たちの仕事を奪うことになりはしないか」という危惧もないとは言えない。
しかし、本当に仕事の修羅場をくぐり抜けてきた人なら、「世の中はそんな綺麗事で済むようにはできていない」と知っているだろう。仕事の成否を決めるのは、一にも二にも「決断と行動のタイミング」だ。人に任せていて着手が一歩遅れれば、機会が永久に失われることもしばしばある。だから、「ここは自分がやるしかない」と思う時は、やはり自分でやるのが正しいのだと思う。
高齢者も年金制度を支える立場に
しかし、そうは言っても、本気で仕事に取り組んでいれば、いつも心配事に付きまとわれていなければならないのも事実だ。だから、「楽しいから」とか「興味に突き動かされて」とかいうだけではなく、何か「使命感」の様なものがなければ、やはりそんなに長く続けてはいられないだろう。現実に、私には、この「使命感」ともいうべきものが二つある。
先ずは、日本の高齢者としての「使命感」だ。
今の日本の産業界には、かつての様ながむしゃらな拡大意欲があまり見られない。大企業の幹部には「リスクを回避しつつ、着実に内部での評価を上げていきたい」という志向が見え見えだ。しかし、いつまでもこんなことをしていたら、世界市場での競争力が徐々に衰えていくのは明らかだ。
そして、その一方で、高齢化社会に突入した日本の社会保障体制は、現状では目一杯拡大した国の借金に過度に依存しており、このままでは、「自分たちの孫たちの時代には、大きな財政破綻に見舞われるのではないか」という危惧も禁じ得ない。
この様な「万一の事態」を防ぐためには、高齢者である自分たち自身がもっと働くべきだと、私は常日頃から思っている。高齢者といえども、働ける限りは働き、できるだけ長い間にわたって、「年金を食い潰す側」ではなく、「年金制度を支える社会保険料を支払う側」に留まるべきだということだ。
そして、さらに言うなら、もはや「守るべき地位」を持たない高齢者たちは、そのための保身に窮々とするのではなく、自ら一兵卒として難しい前線に立って、次世代の指導者たちに範を垂れるべきなのではないかとも、私は考えている。
デジタルデバイドのないネット社会を地球規模で実現
次は、少し話が大きくなるが、変革期にある世界の一市民としての「使命感」だ。
現在の世界は、自らの経済圏を貪欲に拡大しようとする帝国主義国家同士が、互いに衝突を繰り返してきた第二次世界大戦以前の世界に比べれば、随分良くなったとはいうものの、なおも各地で無意味な戦争や騒乱が後を絶たない。
世界中で民主主義と法治主義に根ざした国家が増えたとはいうものの、現状を注意深く見渡すと、自己本位な大衆とそれに迎合する政治家たちが、むしろ時代を昔に戻す方向に動かしつつある様な気もする。
この問題を克服しようとするなら、何よりも世界中の若者たちに均等な教育機会を与える必要がある。そして、世界中をくまなくカバーするオープンな情報システムによって、正確な事実関係とそれに基づく多くの公正な論評が、世界中の人たちに同時に共有される様にすることが必要だ。そうすれば、多くの人たちが「真実に基づいて自分の頭で考える」ことができる様になり、一握りの人たちの扇動に乗せられる可能性も少なくなるだろう。
これを実現するために大きな力になり得るのがインターネットだが、その恩恵を全世界の人々にもたらすには、未だにあまりに未成熟で、かつ非力だと言わざるを得ない。ネット上にあふれる情報や言論は、文字通り玉石混交であり、現状のままだと、多くの人たちを啓蒙するどころか、むしろ混乱させる恐れもないとは言えない。
その一方で、インターネットの恩恵を万人に行き渡らせるために必要な「高速通信ネットワーク」のお寒い現状も、大きな問題だと私は思っている。現状が改善されないと、通信環境の格差が情報力の優劣をもたらす「デジタルデバイド」という現象を引き起こし、世界中でより一層深刻な格差拡大を招くことにもなりかねない。
これからの多くの問題に風穴を開けることができるのは、一にも二にも「技術革新」だ。そして、私の様な人間は、その核心に迫れる立場にある。それなのに、自ら早々と現場から離脱して、「悠々自適」などという贅沢な環境に身を置く選択肢は、現在の私にはあり得ない様な気がする。
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