「空っぽの箱」だから、アレンジの自由度が高い

イタリア・ミラノ1号店オープン時の茶室の壁面イメージ(2005年)

 岡倉天心の『茶の本』によると、茶室は空っぽの入れ物であり、そこに何を入れていくか、どのように完成に向かっていくか、ということが茶道の本質にあるという。また、茶道では、招かれた客人も含めて共に茶の経験を完成させていくのだという。

 私はこの話を知ったとき、「MUJIに似ている」と感じた。何が共通するかというと、「自由度の高さ」である。空っぽの箱のように、使用の自由度が高い商品を購入し、使い手が自分なりの完成形を目指していくというのは、MUJIのスタイルであり、茶道の精神に通じるのではないだろうか。

 シンプルなデザインでいろいろなサイズのモジュールを取りそろえた収納用品に代表されるように、MUJIは使い手が使い方を自由に設定できる。余分な装飾をなくしているMUJIの商品は、顧客によるアレンジの自由度が高い。

 禅と茶道の共通するところは、物事を単純化することである。単純化し、そぎ落とし、残されたところに、本質、美があると考える。また自然と親しむことも大事にする。これらの考え方は、MUJIのコンセプトに通じる。

「これ『が』いい」ではなく、「これ『で』いい」という商品をつくる

 MUJIはターゲットを絞らず、最大公約数的な商品をつくる。MUJIの言葉でいうと、「これ『で』いい」という商品をつくるということだ。個人の好みの細かなところに合わせた、「これ『が』いい」と選ばれる商品よりも、不特定多数の人が合理的に満足できる「これ『で』いい」レベルの商品をつくる。

 普通、人が何かを選択するときには、「これ『が』いい」という、より好みにぴったりのものを選ぼうとする。だから商品開発をする側も「これ『が』いい」を追求する。それはマーケティング的な発想だ。「これ『で』いい」というMUJIの思想は、「これ『が』いい」というマーケティングの発想とは、考え方が違う。

【図】 「これ『で』いい」の考え方
MUJIはターゲットを絞らず、最大公約数的な商品をつくる。個人の好みの細かなところに合わせた「これ『が』いい」と選ばれる商品よりも、不特定多数の人が合理的に満足できる「これ『で』いい」レベルの商品をつくるのだ。

 「これ『で』いい」のレベルはどこなのか、という線引きは難しい。満足度の最大公約数がどのレベルなのか、ターゲットを絞らない満足のレベル感について、はっきりとしたルールがあるわけではない。決まったものでもなく、独りよがりのものでもなく、時代の中での生活者の多くに支持されるリアリティによって判断される。

 「これ『で』いい」がぴったりのレベルで実現できると、大きな市場に受け入れてもらえる。個性を出そうとして「これ『が』いい」を追求すると、市場の大きさは小さくなる。また、合理的な満足レベルに達しない商品は見向きもされないから、市場は小さくなる。MUJIの「これ『で』いい」は、価格や品質、デザインなどに関して、消費者の「あきらめ」や「妥協」が入らないように、絶妙なレベルを実現しているといえる。