ずっと「ハレ」の側、もうあり得ない
1980年代の終わりの方になってきて、糸井さんが「ほしいものが、ほしいわ。」というコピーをつくった時代になると、世の中や、セゾンにもやや変化が出てきていたのではないでしょうか。そのころは、どんな状況だったのでしょうか。
糸井:西武については、単純にイメージの面でピークを過ぎたという実感がありましたよね。「ほしいものが、ほしいわ。」の時代というのは、もうすでに消費の真ん中に百貨店がいるというのは、時代として終わりそうでしたよね。おそらくもう、そのときにはバブルが終わりそうになっていた。
「ほしいものが、ほしいわ。」は1988年で、バブルの崩壊が始まったとされるのが1991年。少し早い気もします。
糸井:「ほしいものが、ほしいわ。」の頃、もうそのときは予感があるんですよ。どこかのところで消費の様変わりみたいなものを、僕の本能的な何かでしょうね。「ハレ」と「ケ」で言うと、「ハレ」の側にずっと人を引きつけているというのは、もうあり得ないなと。
これからは「ケ」の側をやっぱりつくっていく必要があるというイメージはありました。今でも、「ほぼ日」で何かと言うと、生活のとか、ライフとか言っていますけど、これはいわゆる「ケ」の部分の豊かさですよね。デパートに行くのも、ちょっとおしゃれをして高いものを買いに行くというイメージよりは、もっとデパートで、どんないい時間が得られるかみたいな、そっちの方に向かっていった転換期でした。
90年代の初めに1回、僕は西武の仕事はクビになっているんです。堤さんが経営の表舞台を去ってから、「糸井さんの時代は終わった」みたいに言われて。でもしばらくすると、やっぱり来てくれませんかみたいになって。もう一回始めたんです。商品の包み方の一番じょうずな百貨店になります、などのキャンペーンをつくりました。売れていようが、売れていまいが、従業員が意気軒昂でいられるようなキャンペーンをやりたいなと思ったのです。本当のことを広告でやりたかったんですよね。内部が元気になるということ、そして外の人にはっきりと約束できる広告を作りたかったんです。理想的な商品は僕らは作れないけど、理想的なサービスはつくれるんじゃないかなというのが、僕の広告屋としての最後の抵抗みたいな仕事ですね。
堤さんは晩年、経営から完全に退いた後も、執筆には熱心に取り組んでいました。
糸井:後にお年を召してから書くエッセーなどは、どういうふうに人々がうねりをつくっているかとか、どういう幸せ感があるかみたいなことについては、ちょっと古くなっていたと思いますね。「ぴかっ」といいものもありましたが、やっぱり国会の中での野党の人たちが言っているお題目みたいなことが混じるというのは。堤さんに会うときがあったら柔らかくそこのところをやりとりしてみたいなという気持ちはありましたね。
西武百貨店で「つかしん」をつくったときの発想とか、有楽町の店づくりをやっているとき、つまりポジティブに何かを変えていくことをできていたときの堤さんとは、晩年は違ってきました。世の中の現実に対して「裁断を下せる力」が、少なくなったからかもしれません。
30代で、堤さんと丁々発止でやったことが、いま経営者としての糸井さんに何か影響していますか。
糸井:影響はありますよ。身に付けた考え方は、ノーアイデアで何とかするというのは、みっともないんですよ、ということ。物事って調整とか、あるいは、もうちょっと頑張るみたいなことで、案外進んでいくんですよ。でもそういうのを見ると、堤さんは、君たちは何も考えていないのかというような趣旨で、怒っていました。だからノーアイデアというのは、やっぱり一歩も踏み出していないぞと。それでは、雇われていようが経営者であろうが、お金をもらう意味がないと思いますね。その意味で、堤さんと仕事をしていたのは、本当によかったと思うんですね。
それは糸井さんの会社の社員の人にも、伝えているのですか。
糸井:伝えていると思いますね。「それじゃあ、みっともないよね」と。社員からすると、ちょっと怒られているみたいになりますけどね。「それは何も考えていないね」というのはよくいいますよ。「AがAダッシュになっただけだけど、いつ考えたの」って嫌みなことを言いますよ。それは堤さんと同じですよ。
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