
堤清二氏はプロデューサー役
当時、糸井さんは何歳ぐらいでしたか
糸井:まだ30歳くらいですね。百貨店の広告と流通グループの広告の両方をやっているということで、すっかり僕は西武の人になっちゃったわけです。今思えば会社にとっては、大冒険ですよね。30歳の子に、いわば経営企画室の広告をさせているわけですから。もし僕が物事を分かっていたら、怖がったでしょうね。でも、伸び伸びとやらせていただいたんですよ。僕も一生懸命考えましたしね。それはよくないけどこっちの方がいいんじゃないかとかいうのも、言えば聞いてもらえた。
助手が一緒に西武との打ち合わせに行っていて、端っこで見ていたりするんですけど、僕は靴を脱いでいすの上にしゃがみ込んで、たばこを吸いながら、堤さんとやりとりしていたんですって。後で冷静に考えると、えーって思うんだけど。ごく自然に、お猿みたいな格好で、会長室などで大事なミーティングをしているというのは今思えばふざけた話ですね。僕は伸び伸びしすぎるような人間だったのに、西武はそれをよく大目に見てくれました。
糸井さんのような若手のクリエイターを、堤さん自身が積極的に集めていたのでしょうね。
糸井:堤さんは世間の興味を持ちそうな題材、ぜひ世間の人たちに知ってほしいなと思うことを、生き生きとプロデュースしているつもりだったでしょう。経営者のほかにプロデューサーの面が非常に強かったと思いますね。
本当に初期のロボットをスーパーマーケットの中に導入する際の議論でも、いずれどういう時代が来るかという話をこんこんとしていましたね。いずれは人がやらなくてもいいことをロボットがやってくれると。これから我々はそれを視野に入れて仕事をしていくべきだと。いま似たような話が実現しつつあり、よく話題になっていますね。
ほかに堤さんの先見性を感じた事業はありますか。
糸井:1984年に西武の有楽町店をつくりました。店をつくるときのコンセプトは、「ほどよい狭さの、大世界。」というコピーなんですよ。僕が書きました。店は狭いのですが、でもそこから広がっていくということで、例えば旅行や保険を販売したり、日本や世界のお酒を集めた「酒蔵」が入っていたりと。いまもよくお題目としてモノからコトへの時代だってみんな言っているけど、本当に「モノからコトへ」を具体化する場所をつくった人はそんなにはいないと思います。
兵庫県尼崎につくった商業施設の「つかしん」。あれは一種の小さな都市計画でした。百貨店と一体で、教会や飲み屋街をつくりました。そういったもの一つひとつが面白かったですね。
ある種の思想に基づいて、これほど大胆に事業を構想する人物は歴史的にみても珍しいかもしれませんね
糸井:そういう点を、思想家の吉本隆明さんが評価していました。つまり、左翼政党などが言っているのは革命じゃなくて、堤清二がやっている「つかしん」の方が革命だとか。僕が仲介して、吉本さんと堤さんの対談をやったことがあります。面白かったですよ。
堤さんは、いわゆる資本家という人ですし、当時は吉本さんは左翼の人。同時に2人とも詩人で、評論家みたいな役割もあった。ああ、こういうふうに歴史ってできるんだなみたいな気持ちになりました。
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