ファッションの街にぶつけたい
無印のコピーを書くうえで、大切にしてきたことは何ですか。

小池:一切物をうたい上げない。普通、商品がどんなにいいかということをうたい上げるのがコピーライティングの1つのテクニックだと思うんですけど、そうではなくてありのままの物について語る。そのことだけをしようということで、「わけあって、安い」というコピーが出たのです。それぞれの商品に「わけ」がありますので、それを飾らずに言葉にする。さっきのシャケでいうと、丸くきれいではありませんが、括約筋をフレークにしてありますと、本当にありのままだけを伝えたのです。最初の商品の40品目、これなら売れるかなと、商品部が作ったのを、ただ単純に記録しているだけです。これも広告として、本当に気持ちのいい仕事ができました。
それまでは西友のスーパーの売り場で展開していましたが、83年に東京・青山に初めて単独店を出しましたね。
小池:無印良品は、衣生食を網羅して1つの思想で提供しており、ライフスタイルを見せられるのだから、独立した路面店を出しましょうと、田中さんや私たちが、提案しました。そのころ青山などを中心に、日本人のデザイナーの、三宅一生さんや川久保玲さん、山本耀司さんの勢いが増していたし、海外ブランドもどんどん青山に来ていました。そういう街に、無印の考え方をぶつけたいと思ったのです。ブランド文化が真っ盛りのときに、ファッションの街に、地味な無印良品をぶつけたいと思ったのです。
思い切った考え方ですね。ある意味、ブランド文化を挑発するような。
小池:とてもチャレンジングなことなんですけど、堤さんはやろうと言ってくれました。西友の方々は不動産の物件探しに苦労したと思います。もちろん路面店でやる必要がありました。それまで無印良品は西友の3階の衣料品売り場にちょっと、食品の地下売り場にちょっと、とかいうように、ばらばらに置いてあったわけですが、路面店で全体像を見せようという目的です。青山のようなところでライフスタイルを提示できれば、これは1つの「ブランド」として成功すると思われたんじゃないでしょうか。これは堤さんの決断です。
西友社内では、1号店を銀座や吉祥寺などにする案もあったと聞きました。
小池:立地を選ぶとき、誰が買うかということが大切な要素としてあると思うんですね。1号店のターゲットとしては、かなり感度の高い消費者を顧客にしたいと思ったのです。無印良品は、物に密着して飾り気がなくて、生活の中で混乱を起こさない控え目なデザインですよね。そういうものを欲しいと思う人たちが、青山に増えていたのです。例えば、いろいろなアトリエですとか、小さな会社を始めたようなデザイン業の人たちなどです。
青山への出店は、本当に時代感覚の中で、この方向がいいということについての確信犯だったと思いますね。それぞれの単品で、西友のあちこちの売り場に無印良品というのがあっても何を言おうとしているのか分からないですよね。それをまとめれば衣食住で生活全体像を見せられて、こういう方向があるんですよということが言える。そういう考えが受け入れられると信じていました。
クリエーターの立場から、時代がどちらの方向に進み、何が求められているかについて確信があったとうことですね。堤さんも無印良品について、ある種の確信を持っていたのでしょうか。
小池:そうですね。堤さんの場合には、やっぱり本当に市民生活というか、市民論というか、そういうことをしっかりと考えていらっしゃって、そこにデザインなどクリエーター側からの提案が触れたんじゃないかと思うんですね。本当に珍しい出会いですよね。クライアントとデザイナーチームのね。
堤さんは、必ずしも自ら望んだわけではない百貨店事業を父から引き受けました。そしてその百貨店を経営するうちに、「生活というものは延々と続く」という実感を持ったようです。無印良品が発売される前、1970年代にオイルショックが起き、小売業の現場で、買いだめによって、小売業の店頭からトイレットペーパーがなくなるというような様子を目の当たりにしたのですね。そして、生活というものは戦争があろうと経済が繁栄しようと延々と続くのだと感じたそうです。だから生活に役立つものをきちんと作って売っていくことが自分たちの使命だと、そういうお考えだったと思います。人々の生活に役立つものを作り売るということを、ビジネスの中心に持っていたと思います。市民生活というものを実によく観察していらっしゃったんだと思いますね。
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