「無印良品」を展開する良品計画は2018年2月期決算で7期連続の営業増益となるなど好業績が続く。世界の店舗数は約900店あり、すでに国内よりも海外店舗が多く、グローバル展開にも拍車がかかる。1980年の発売から40年近くが経過しても、商品のコンセプトがぶれないことに強さの秘訣がある。
セゾングループ創業者・堤清二氏が、ブランド品がもてはやされる消費文化に対するアンチテーゼとして、世に放ったのが無印良品だ。クリエイティブ・ディレクターの小池一子氏は、創業時から無印商品のクリエーターチームの主要人物であり、堤氏らと深く議論してきた。「しゃけは全身しゃけなんだ。」などインパクトあるコピーを多数生み出し無印良品の発想を消費者に伝えた。小池氏に、無印良品のルーツや堤氏の発想について聞いた。

クリエイティブ・ディレクター。東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。西武セゾングループのコピーライティングを多数手掛けた。「無印良品」の創業以来、アドヴァイザリーボードのメンバーを務める。デザイン研究の立場から、アート-デザイン-ファッションの境界領域を見すえる視点に立つキュレーションを特色とする。『空間のアウラ』『イッセイさんはどこから来たの? 三宅一生の人と仕事』など編著・訳書多数。十和田市現代美術館館長、武蔵野美術大学名誉教授。
写真:竹井俊晴
1980年の無印良品の立ち上げに尽力した小池さんや田中一光さんといったクリエーターの方々は、それ以前にも西武百貨店の文化事業や広告宣伝で、堤清二さんと一緒に仕事をしてきた経緯がありますね。
小池一子氏(以下、小池):60年代に力を蓄えてきたさまざまなクリエーターが70年代に開花しました。例えば美術家の横尾忠則さん、グラフィックデザイナーの田中一光さん、その他多くの方々がいらっしゃいます。当時は日本の経済にも勢いがあり、クライアントである企業が発案して、クリエーターのエネルギーと創造力がそれを実らせるということが、華やかに順調に進んだ時代だったのでしょう。その最良の部分を、堤さんは西武セゾングループの事業に組み込んだのです。
当時、堤さんの文化事業や広告宣伝活動に対する姿勢は、ほかの企業とはかなり違っていましたか。
小池:西武はもともと百貨店としてはマイナーでした。三越や伊勢丹のようなブランド力をもたないわけですね。そこを盛り立てていくということに堤さんは並々ならぬ意志を持っていたと思うんですね。堤さんは宣伝部などに良い人材をそろえていて、そこからクリエーターの人たちへの発注につながっていくわけです。私は、美術を中心とした西武の頒布会のカタログを作る仕事に携わったことがあります。そのとき、これはとても大事な仕事だと思ったので、田中一光さんにデザインをお願いしたんですよ。そのことが多分きっかけになって、堤さんが田中さんの仕事を高く評価し、西武セゾンのアートディレクションを一任しました。お二人の取り組みは1975年に池袋店の最上階に完成した西武美術館でも大きな役割を果たしました。
無印良品はスーパーの西友のPB(プライベートブランド)としてスタートしました。小池さんは、それ以前の西友の仕事も手掛けてきましたね。
小池:そうですね。田中さんがアートディレクターとして、デザイナーとして、私はコピーライターとしていろいろな商品や情報の宣伝の仕事を発注されていました。無印良品ができる前に、「西友ライン」というPBがあり、それにも携わっていました。田中さんと私は、もっと生活に対して、今でいうとライフスタイルに対して、きちんと突っ込めるような物づくりを、自社ブランドを通じて展開したほうがいいという、クリエーターとしての思いがありました。
一方で堤さんは西友の商品担当者などに対して、自社ブランドの在り方について宿題を出していました。例えば、流通段階でのコストをいかに減らすかといった課題です。そうした課題に答えた無印良品の初期の代表的な商品として、「割れしいたけ」があります。生産の現場で欠けたり、輸送中に割れたりしたしいたけは、十分においしいのにもかかわらず、正規の流通ルートに乗らなかったのです。丸いきれいな形のしいたけだけがパッケージに入っていないといけないという、業界の通念が自主規制のようになっていたからです。そうした業界の通念に対するアンチテーゼを打ち出そうという思想が無印良品には込められており、割れしいたけは、それを具体化した例です。
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