建築家・安藤忠雄氏の関係者50人へのインタビューの中から、仕事や社会活動に役立ちそうな安藤氏の言葉をいくつかのテーマで紹介する本コラム。今回のテーマは、「モノ作りへのこだわり」だ。
安藤氏は、モノ作りへの執着が強い建築家として知られる。若い頃には、コンクリート打ち放しの仕上がりに納得がいかず、途中までつくった建物を壊してコンクリートを打ち直したという逸話も残る。
伊東豊雄(いとう・とよお)
伊東豊雄建築設計事務所代表。1941年京城市(現ソウル市)生まれ。65年東京大学工学部建築学科卒業。菊竹清訓建築設計事務所を経て71年にアーバンロボット(URBOT)を設立。79年に伊東豊雄建築設計事務所に改称して現在に至る。2013年プリツカー建築賞受賞(写真:山田愼二)
安藤氏が実作を世に問い始めた1970年代後半、建築界は「ポストモダン」のムーブメントが生まれ、「モノ作り」よりも「設計の方法論」に重きが置かれるようになり始めていた。そんななか、同世代の建築家・伊東豊雄氏は、デビュー当時の安藤氏から聞いたこんな言葉が忘れられない。
「モノに人が乗り移らなければ建築はだめなんだよ」
安藤氏の出世作となった「住吉の長屋」(1976年竣工)の現況(写真:日経アーキテクチュア)
伊東氏はこう振り返る。
「当時東京では、同世代の建築家とよく酒を飲み、建築の話をしていた。どちらかと言うと空間論をはじめとするやや抽象的な議論が多かった。建築をやりたいのに仕事がない。社会から阻害されているという意識が強く、社会に批判的なスタンスを取っていた」
「それに対して安藤さんは、我々が入り込めない現実社会に土足でヅカヅカ踏み込んでいくようなたくましさを備えていた」
「東京の我々が考えていた建築家像とは違い、中小企業の経営者のように見えた。クライアントや施工者との関係構築、具体的なつくり方へのこだわり、お金の工面……。当時の私たちは、建築をつくる際にこうした要素が大切なことをよく理解していなかったが、安藤さんは最初からきちんと心得ていた」
「頼むな」「ようやってるか」
仕上がりへの執着が人一倍強い──。そんな話を聞くと、建設現場の職人たちから嫌われていそうに思うかもしれないが、そうではない。むしろ安藤氏は職人の心をつかむのがうまい建築家として知られる。
豊田郁美(とよだ・いくみ)
ARTISAN代表。1953年山口県生まれ。鹿島入社、中国支店建築工事部長などを経て2014年ARTISANを設立。ベネッセアートサイト直島では「ベネッセハウスオーバル」(95年)、「地中美術館」(2004年)、「ベネッセハウスビーチ」、「ベネッセハウスパーク」(06年)、「李禹煥美術館」(10年)の安藤建築などを担当した(写真:日経アーキテクチュア)
鹿島の現場所長としてベネッセアートサイト直島の一連の工事を手掛けた豊田郁美氏は、安藤氏が建設現場で職人たちにこんな声をかけるのをしょっちゅう耳にした。
「頼むな」「ようやってるか」
陰で敬意を払うのではなく、全力で職人たちを労わる。豊田氏は、「現場に寄り添ってくれていると感じさせる建築家の熱意は、確実に職人へ伝わる。次第に職人たちは安藤先生が見ていることを意識しながら施工するようになった」と言う。「島の現場に通う船内でも、職人は安藤先生と会話をしたがった」
2004年、香川県直島にオープンした地中美術館(写真:的野弘路)
地中美術館のスロープ。スリットはコーナー部も連続している(写真:的野弘路)
一方で、安藤氏は、職人たちを管理する建設会社のスタッフには厳しい。「施工図を説明する際には、何を検討してどう判断したかという内容を自分で咀嚼して話すことが求められた。寸法を聞かれた際に分からないなどと答えようものなら、雷が落ちる。つくり上げるモノに対しては妥協しないが、施工のプロセスや手段については柔軟に対応してもらった。施工は難しいけれど、現場のモチベーションは高かった」(豊田氏)
「なんでもっと前に分からんのや」
安藤氏と旧知の仲である建築家の竹原義二氏も、「安藤さんは(昔から)職人一人ひとりに声を掛けて指示を出していた」と話す。
竹原義二(たけはら・よしじ)氏。
1948年徳島県生まれ。石井修/美建・設計事務所を経て、78年無有建築工房を設立。2000~13年大阪市立大学大学院生活科学研究科教授。15年から摂南大学理工学部教授(写真:日経アーキテクチュア)
竹原氏は1970年代、安藤氏の活動初期から付き合いのある、いわば“弟分”だ。
「安藤さんは(後輩である自分に)現場の途中段階をよく見せてくれた。例えば型枠を組む、コンクリートを打つという建設過程だ。建築は職人の手作業によって現場でつくり上げられるもの。現場では職人が最善を尽くせるように、つまり精度高く施工できるように、条件を万全に整えておく。コンクリートを打つ日は前日に型枠を雑巾できれいに拭き、当日は生コンのポンプ車が故障しても困らないように予備車も手配していた。安藤さんの用意周到さには舌を巻いた」(竹原氏)
竹原氏からこんなエピソードを聞いた。
安藤氏は、現場で直すところがあっても職人を怒ることはしない。事務所のスタッフ、あるいは建設会社の現場監督をこんな言い方で怒っていたという。
「なんでもっと前にこの間違いが分からんのや。ここまで進んでから直すとすごく手間がかかってしまうやないか」
「すると職人は直さざるを得なくなる。彼は人の心の機微や人との付き合い方をよく知っていた」(竹原氏)
そうした叱り方も含め、竹原氏は安藤氏の現場でのかじ取りを見て、多くのことを学んだという。
「六甲の集合住宅」第1期(1983年)の遠景(写真:三島 叡)
「建築の美しさが偶然生まれたわけではないことや、ここまでしない限り、社会には立ち向かえないことを暗に伝えていた」。そして、「建ち上がった建築の力強さと美しさから人間の魂が見て取れた」と竹原氏は言う。
建築専門誌「日経アーキテクチュア」は11月20日に、書籍『安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言』を発刊した。安藤氏について詳しく知りたくなった方はぜひご覧ください。
編者:日経アーキテクチュア
出版:日経BP社
価格:2916円(税込み)
厳選した「50の建築」と、独自取材による「50の証言」を通じて、安藤忠雄氏の約50年に及ぶ活動と人物像を浮き彫りにする。大きな反響を呼んだ日経アーキテクチュア誌・安藤忠雄特集でのロングインタビューも収録。数ある関連書籍のなかでも「決定版」といえる1冊。
Powered by リゾーム?