米国の支援で生まれた西ドイツ政府はソ連による国境変更を認めず、NATO(北大西洋条約機構)に加盟した。この問題がある限り、西ドイツ外交は対米追従しかありえなかったのである。

作成:茂木誠
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 1970年代、米ソ間の核軍縮(デタント)を背景として、西ドイツのブラント社民党政権が対ソ関係の打開に動いた。ブラントは「第二次世界大戦の結果としての国境線」であるオーデル・ナイセ線を承認し、「東方領土」の返還要求を取り下げたのだ。

 ドイツ国内では、「東方領土」の旧住民を中心に激しい反発が起こった。しかしこのブラント「東方外交」の結果、ソ連やポーランドとの関係は劇的に改善し、73年の東西ドイツの国連同時加盟、89年のベルリンの壁開放、90年の東西ドイツ統一へという流れが生まれたのだ。

安倍・プーチン蜜月が終われば再び振り出しに

 「北方領土問題」も戦後日本の外交を拘束し続けてきた。

 51年、吉田茂首相が米国を主体とする連合国と結んだサンフランシスコ平和条約では、「日本は千島列島を放棄する」と記されたが、この中に択捉・国後・歯舞・色丹の「四島」が含まれるのかは明記されなかった。日ソ間に杭を打ち込んでおこうというダレス米国務長官の深慮遠謀である。ソ連は調印を拒否し、日ソ平和条約の締結が先送りされた。

 56年、鳩山一郎首相とブルガーニン首相が署名した日ソ共同宣言では、国交回復と日本人抑留者の解放に加えて、「平和条約の締結後に歯舞・色丹のみ引き渡す」と明記された。

 しかしソ連は60年の日米安保条約改定を口実に、日本との平和条約交渉を拒否した。オホーツク海はソ連の原子力潜水艦の活動拠点であり、択捉・国後を日本に引き渡して米軍基地が置かれることを警戒したのだ。

 交渉が進んだのはソ連崩壊の直後である。来日したロシアのエリツィン大統領が細川護熙首相との東京宣言で択捉・国後・歯舞・色丹の「四島」を交渉のテーブルに乗せた。破綻した財政の再建のため、エリツィンはジャパン・マネーを渇望していたのだ。

 その後、日本は「失われた20年」と呼ばれる混迷の時代に入り、首相がくるくると交代した。日本は、「四島返還」「固有の領土」のお題目を繰り返すばかりで、ロシアとの領土交渉の絶好の機会を失った。

 ロシアではプーチン大統領が登場して経済と財政を再建した。ロシアの威信回復を掲げるプーチン大統領は、中国との領土紛争を折半方式で決着するとともに、ウクライナの内戦に介入し、ロシア系の多いクリミア半島での住民投票の結果を受けて、クリミアをロシアに併合した。プーチン側近のメドベージェフ氏は国後島に2度も上陸し、日本側の抗議を一笑に付した。

 中国の習近平政権がこれに乗じた。北京で行なった対日戦勝70周年記念パレードにプーチン大統領を招いて主賓扱いとし、われら戦勝国は日本の「歴史修正主義」を認めない、と圧力をかけたのだ。尖閣諸島を領土紛争の対象とし、「北方領土」問題と同列においてプーチン大統領を抱き込もうという魂胆が見え見えだ。